普化禅師

In 私ノ茶乃湯考 by user

先月の末、お弟子さんの一人である佳樹君の初めてのお茶事に参会させていただきました。

佳樹君の弟弟子にあたる、章吾君の初茶事の影響を受けて、開いていただいたお茶事でありますが、思いに溢れた、とても素敵なお茶事でありました。

この兄弟弟子間での志の共有がまた続いてほしいですね。

また、このたびは、三友庵に通って5年ほどになる子どもたちも着物で参会をしていただきました。

お茶がとてもお好きなようで、嬉しいかぎりです。

お掛物は「楽在一碗中」で楽しみは一碗の中にあり・・という意味があるようでございますが、これはお茶にかぎらず、温かいご飯のはいった一碗のこともいうようです。

忙しさに心を奪われ、ご飯をじっくり味わうことができないと、それは、ただの栄養摂取であり、お茶の間での食事の時間を楽しく過ごすことはできません。

とくに現代人は、スマホ片手にご飯という姿をよく拝見しますが、それで食事の有難味や本当のご飯の美味しさを味わうことができるのか、とても不思議に私は、思っております。

白米を一つ一つ、かみしめながら味わい、その甘み、うま味をじっくりいただき、そんなひとときに楽しみを覚えることができたのなら、毎日が豊かで味わい深い日々に変わるかもしれませんね。

佳樹君は、毎日のご飯を心込めて手作りしており、また、江戸時代の食事を古い書物から再現し、日々を懐石の研究にこころざし、絶え間のない努力を重ねてこられました。

そこに楽しみを見出し、毎日のお食事を実りあるものにしていた佳樹君の姿勢がこのたびの懐石からも伝わり、本当に頭のさがるお弟子さんです。

お茶も味わうことをせず、がぶがぶ飲むようでは、ただの大服茶人であり、気を付けなければなりません。

点てた、点てていただいたその一碗に全力で心を寄せ、お茶の風味から香り、色、そして、その一碗に込められている心を味わい、かけがえのなく、いただいてほしいと思います。

そうすることで、その一碗がより美味しく、実りのあるものになると思います。

さて、題にあります普化は、臨済録に出てくる一人のお坊さんのことをいいます。

臨済録を拝読しておりますと、このお坊さん、なかなか面白いお方のようで、まこと風変わりな境涯をお持ちのようです。

私は、若いころ、この普化というお坊さんの逸話に触れ、好きになったのを思い出します。

どこか一休さんのような風貌を覚えるのですが、何ともいえない自由闊達な禅味を感じます。

当然、唐の時代の普化禅師の方が一休さんよりも古い時代のお坊さんではあるのですが、実在したことがわかる一休さんに対して、普化禅師は実在したお坊さんなのか明らかではないようです。

実在したかは、わかりませんが、逸話をひとつ紹介いたします。

一日、普化、僧堂前に在って、生菜を喫す。

師見ていわく、大いに一頭の驢に似たり。

普化便ち、驢鳴を作す。

師いわく、この賊、賊と云って、便ち出で去る。

ある一日の時のこと、僧堂の前で普化が、そこら辺の葉っぱをボリボリ、パリパリと一心に食べております。

これを弟子と共に見ていた臨済は「お前は、驢馬みたいなやつじゃのう」と言いました。

すると、普化は、何も言うわけではなく、大きな声で驢馬の鳴き声を真似しました。

そこで臨済「この盗人めが!」と言うと、普化は、静かに「あぁ、盗人じゃよ。盗人じゃよ」と言い、去っていきました。

まことに面白い逸話であります。

なかなか臨済禅というと智慧磨かれた気難しいイメージがあるようですが、上手いことをいうことばかりが臨済の禅では、ないということを私たちに教えてくれる逸話に感じます。

この臨済禅師と普化禅師のやり取りは、禅の尊い働きを示していることで、私たちの思い浮かべる悪口には、ならないのですが、人に「馬鹿、あほ、畜生」などと言われ、罵られたら、抵抗し、怒ってしまうのが人であります。

この普化禅師のように、人に何を言われてもそのまま意にかえさず「そうだ、そうだ」と流すことができたら、気持ちの波は、揺れ動かず、心は穏やかなままでしょう。

受け取っているようにみえて、相手の言葉を受け取っていない、その心境こそ、大安心の楽しみであり、むしろ、その悪意さえも面白い働きに転換できたなら、この世を明るく、楽しく生きていけるのではないでしょうか。

時に相手に「犬畜生め!」と言われたら「わん!わん!」と返せばよろしいのです。

生きとし生けるものすべてに畜生も畜生でないものもいないでしょう。

すべてひとしく、命の灯をいだく、友なのだから。

変幻自在に化けてやればよいのです。

かくいう私も悪意にみちた皮肉を皮肉と受け止めることのできない、頭の足りない者でございまして、また、悪口のはいらない都合の良い耳に助けられ、いつもニコニコ笑ってしまい、人からは、陰で「大馬鹿者」と笑われていると思います。

さて、このたびの佳樹君のお茶事では、この普化という銘の自作の茶杓を私から佳樹君に贈りました。

さっそく、用いていただき、とても嬉しかったです。

普は、ゆきわたらせる、化は、徳を以って教え導くことという意味があるようですが、まこと普化禅師の尊い禅のお働きを感じます。

素直も極めれば、普化禅師のようになりますが、誰よりも素直な佳樹君の幸せな毎日を祈るばかりです。

これからも直向きに素直にこの道を歩み、佳樹君の目標「人を笑顔にするお茶」の成就を願い、また、佳樹君の修行と稽古の積みかさねが、誰かの幸せに繋がりますように・・

最後までお読みいただきありがとうございます。

沙門 宗芯清竜