和顔愛語の生き方

In 私ノ茶乃湯考 by user

先日は、表千家同門会の喜寿の祝いの会に出席する祖母の付き添いを会場前までいたしました。

会場は、国立京都国際会館という場所でその歴史は、日本初の国立の国際会議施設として、うぶ声をあげたようです。

周辺には、宝ヶ池公園があったため、喜寿の祝いの会が終えるまで、私と章吾君は、その宝ヶ池の周りを散歩しておりました。

木々の揺らめきや小鳥のさえずりに心を寄せ、ワクワクと歩いていると向こうから元気のよい足取りの老夫婦がこちらに近づいてきました。

そして、和やかな笑顔を老夫婦はたたえ、合掌をして「おはようございます!」と私たちに言ってくださいました。

そこで私たちも合掌して「おはようございます!」と返したのです。

この思いがけない出来事によって、今日もまたよい日だなぁ。と思える有難い瞬間でございました。

さて、皆さんは、笑顔で普段、お過ごしでしょうか。

怖い顔をして、過ごしてはいませんか。

笑う門には福来る・・なんていう言葉もありますが、笑顔には、自分も相手も幸せな気持ちに導くことのできる大きな福がたくさん宿っています。

先ほどの出来事のように、名前もお顔もご存じの無い方々との一瞬の出会いも、有難いご縁であり、幸せの種は、あるのです。

勤行にての合掌、お食事の時の合掌、人にお会いしても合掌、抹茶を点て、いただく時も合掌と色々なところで合掌をする私ですが、周りの人に奇妙がられるかもなぁ・・と思う習慣があります。

それは、燈明をともし、香や御茶を供え、仏さまに礼拝合掌し、向かい合ったときに浮かべてしまう、笑顔です。

仏さまを前にして、合掌しながら、しばらく笑顔で居座らさせていただくのですが、その瞬間が私は好きなのです。

その後にいただく、抹茶には、何とも言えない清浄さがあり、格別の一服に思えるのです。

これほど、有難い心に導いてくれるものは、そうそうにあるものでは、ありません。

ところで、どうして仏さまを見ると私は笑顔になってしまうのだろうと突き詰めていくと、私の人好きというものがあるように感じてきたのです。

私は、どんな人も好きなのです。

人に会うと自然と笑顔になってしまうのです。

当然、過去には、騙されたり、心の無い言葉もかけられたこともありますし、いじめのようなことをされたこともありますが、一度たりとも、その方々を恨んだり、嫌ったりしたことは、ないのです。

それよりも、このようなことをしないといけないほど今が苦しいのかな・・私が誹謗中傷や嫌がらせを受けることで、嫌な思いをする人がこの世から一人でもいなくなればいいな・・というおもいを抱いていました。

人から見れば、どんなにひどいことをされても、相手をいたわり続ける姿勢、人を一切悪く言わない私を奇妙に思うのでしょうが、これは、人好き、動物好きの私の性なのです。

さて、仏様のような穏やかなお顔をあらわす和顔、人が生き生きとする思いやりに溢れた言葉を送る愛語、どちらも私たちの人生を幸せに豊かに導いてくれるものです。

お金がなくても、できる無財の七施の中に数えられる「和顔悦色施」「言辞施」がこの和顔愛語にあたるのですが、この二つは、仏道修行の一つだとされています。

いつも仏様のような穏やかなお顔でいれば、自分の心も穏やかになり、相手の表情も和らぎます。

周りの人にいたわりと思いやり溢れた言葉をかけていれば、自分の心に慈悲の種が芽生え、自然と優しい気持ちでお互い過ごすことができます。

生きていれば、苦しいことも悲しいこともたくさんあります。

むしろ喜びよりも苦しいことが多い、人生であります。

いっそのこと死んでしまいたい・・という思いを抱いたことのある方も決して少なくないと思います。

そんなときに人から笑顔で接されても、思いやりの言葉をかけられても、笑顔で素直に喜べない自分がいて、そんな自分をますます嫌になってしまうことだってあると思います。

しかし、そんなときこそ、笑って生きましょう。

ぎこちない笑顔を周りの人に馬鹿にされ、気持ち悪いと思われてもいいから、どんな時も笑顔で過ごしましょう。

そうすることで、必ず明日は、ひらけてきます。

その真剣な笑顔に引き寄せられて一緒に笑ってくれる人が現れます。

仏道修行は、世間の人がえがく崇高な悟りを求めることばかりでは、ないと思うのです。

自分の災いの扉をしめる鍵を明らかにすること、不幸を転じて幸にすること、人や世の中、自分の心を明るいものにしていくことも、仏道修行だと私は思います。

「今この時から和顔愛語を実践しよう!」と思う心とその実践が、今この瞬間を明るく、楽しいものにしてくれます。

さて、歴史上で最も和顔愛語を実践した人物が良寛さんという越後の僧侶です。

良寛さんは、神の筆といわれるほど、書に通じた僧侶でありますが、何よりもその生涯は寺を持たず、子供たちと遊びながら、庵でひっそりと暮らす、清僧でした。

貧しいながらも清らかな生き方を生涯通され、人に説法はしないが、会う人、会う人に和やかで優しいお顔、思いやりに溢れた言葉をかけていたとされています。

その良寛さんも心のおもいの中には「人に与えられるほどの財はないが、私には無尽蔵に持っているものがある。それこそ言葉である。生きる言葉なら相手におくることができる」といった思いがあったのかもしれません。

和顔愛語の生き方そのものが自然と人を救う、仏道になっていた人物だと思います。

良寛さんの座右の銘に「一生成香」一生、香を成すという意味の言葉があります。

この生涯をいい香りを放ちながら、生きようと励まれた、良寛さんの尊い生き様を感じます。

この香りとは、香木の香りだけではなく、歩々清風起のように、その人がその場にいるだけで、歩まれるだけで、清らかな風を吹くように、周りの人々を自然と笑顔にし、心地の良い気持ちにさせてくれる仏性の華が放つ香りをいうのだと思います。

そんな良寛さんだったからこそ、今日でも多くの人に親しまれているのだと思います。

私は、良寛さんのような生き方に強く惹かれ、このような生き方がしたいと常々に思っています。

さて、弘法大師空海さまの言葉の中にも「己の長を説くなかれ。人の短を言うなかれ」というものがあります。

自分の長所となるところ、自慢話を人に言わないほうがよい、人を批判すること、人の短所や悪いところ、欠点を言わないほうがよいといった意味があります。

少し想像してみてください。

自慢話ばかりする人が目の前にいたらどのように思うでしょうか。

人の悪口陰口ばかり言う人が目の前にいたらどんな気持ちになるでしょうか。

災いを招かないためにも余計なことは、言わないが吉なのです。

そこで、私はこれに続いておもうことがあります。

「されど、己の短は言いましょう。人の長は伝えてあげましょう」です。

私たちは、自分の悪いところや過ちなどは、人に言いたがりません。

しかし、時には、勇気を出して自分の悪いところ、過ちを素直に言える人のほうが、自分を狭めるような苦しい生き方を遠ざけることができます。

人に自分の悪いところや過ちを伝えることで、謙虚に自分を見つめなおすきっかけを得ることができます。

また、人の良いところを見つけたら、恥ずかしがらず素直に伝えることも人のためであり、自分のためになります。

褒められた相手も自分も幸せな気持ちになります。

このような生き方もまた、和顔愛語に通じるものなのではないかと私は思っています。

和顔愛語の生き方、それは茶道の中での一大事でもあります。

偽りのない和顔愛語に満ち満ちた茶道の世界になることを、願っています。

最後までお読みいただきありがとうございます。

御茶の香りとお香の香りが好きな甥っ子の兎月とともに

沙門 宗芯清竜