先日の松栄堂さん主催の「お香とお茶の会」は無事に終え、久しくお会いしていなかった方々とも再会をすることができて、本当によい一日でございました。
前日は、雨が降ったことから、さらに清らかな境内になり、一陣の清風がなんとも心地のよい晴れ晴れとした日でございました。
さて、茶道では、和敬清寂という言葉が親しく好まれ、この四つの字に茶道の神髄が込められているといわれています。
私は、人にお話するときは、この和敬清寂を大きな声で簡潔に「みんなで和やかに敬い合って、清らかな心で互いにおもてなし」と伝えて歩きますが、この「清らかな心」で躓く方がおられます。
言うまでもなく茶道は、清らかなことを大切にしてきた歴史があり、その清らかなものとは、細部まで掃き清められた茶室や美しく清らかに保たれた茶道具のこともいいますが、最も大切にするべき清らかさとは、私たち茶人の心をいいます。
利休さんの高弟であった山上宗二が記された『山上宗二記』によれば、茶道の清いとは「心ノ内ヨリ奇麗数寄」とし、心の内がきれいな状態をいうのだといいます。
だからといって、心の綺麗さのみがあれば、掃除も怠り、茶道具も粗末で汚いものでよいというわけではなく、やはり茶道では、心の清らかさをおもてに表現しなければならないとも説くのです。
心綺麗なわび茶人と知られているノ貫と利休の逸話が『茶話指月集』にあります。
ある日、利休は日頃から噂になっている侘び茶人を尋ねてみようと、数人を供だって出かけました。
ノ貫の家の外には、井戸があり、そこに人馬の粉塵が舞い散っているのを見て、利休は「この水では、お茶を飲めない。さぁ帰りましょう」といい、帰りかけました。
その様子を見ていたノ貫は、表にでて「お茶を点てる水は、筧からとっているのですが、それでも帰るのですか」と言いました。
それを聞いた利休たちは、立ち戻り、ゆっくりとお茶を楽しまれたということです。
このように表面の清らかな状態も一服のお茶を楽しむには、必要なことですが、表面ばかりに気を取られて、心の内が汚いというのは、茶人にとって最も恥ずべきことであります。
心の内が清らかであれば、自然と相手を思いやった行動をとるものでありますし、人を苦しめ、傷つけ、怯えさせるようなお茶はしないものです。
即中斎宗匠は「内面的な心の美しさを伴わないうわべのきれいさは、茶では昔から似非わびといって、ひどくきらう」といわれました。
『禅茶録』の禅茶器の事という中に、このような言葉があります。
禅茶の器物は、美器に非ず、珍器に非ず、宝器にあらず、旧器にあらず
円虚清浄の一心をもって器とするなり
この一心清浄な器として扱ふが、禅器の茶なり
通釈
禅の心からみる真の茶器とは、俗世間でもてはやされる美しいものではなく、世にも珍しいものでもなく、これ何々家の伝来品や我が家の家宝と称するものでもなく、古いいわれのあるものでもなく、目に見える形あるものでもありません。
禅茶の茶器とは、すべてをあるがままに映す鏡のように汚れのない、真ん丸で清らかな分け隔てのない心を、器とするのです。
このような清らかな一心を器として、どんなものであろうと、何事に対しても分別せず、無心に、専一に、心の向くままに応じて、扱うことを禅茶であるというのです。
「円」は、円相、円満を思い浮かべるとわかりやすいように、真ん丸な完全体をいいます。
「虚」とは、無心や先入観を排した世界のことをいい、無の世界そのものをいいます。
私たちは、この隅々まで清らかに照らされ、汚れのつかない鏡のような、心を持っています。
この純粋無垢な心をここでは「円虚清浄の一心」というのです。
「円虚清浄の一心」といえるものを、栄西禅師は『興禅護国論」序であらわしています。
大なる哉 心や、天の高きは極むべからず、而も心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、而も心は地の下に出づ、日月の光はこゆべからず、而も心は日月光明の表に出づ。
大千沙界はきわむべからず、而も心は大千沙界の外に出づ、其れ太虚か、其れ元気か、心は則ち太虚を包んで、元気を孕む者なり、天地は我を待って覆載し、日月は我を待って運行し、四時は我を待って変化し、万物は我を待って発生す。大なる哉 心や。
さて「信」という字を仏教辞典で調べていきますと「澄みきって清らかな心」と書いています。
あるいは「決定して疑いのない心」とあり、心を清らかにするのが信ともいうようです。
「一切衆生悉有仏性」「草木国土悉皆成仏」という言葉がありますが、命をいただいている者すべてに仏になる性質というものがあります。
まさにこの仏性を茶道では、清らかな心というのです。
この本来私たちに備わっている、清らかな心を信じていくというところに、目の前の相手にも私にも、草木の一つにいたるまで紛れもない仏性、清らかな心があるのだと信じ、決定し、拝んでいくところに、最上の器というものは、出てくるのです。
私と他人とは、何一つとっても別ではないとおもうところから、茶道の理想的世界は、そこから創られ、建立されていくのです。
この形無き清浄の最上の一心を器として、すべてのものに対峙していくということが、分け隔てなく接していくことが菩薩心をかかげる茶人の目指すべきところなのであります。
それゆえ、名物を自慢とし、貴賤で態度を変え、我儘に評論家ぶって、人様を陥れ、相手に優劣の勝負を挑む茶人は、まさに俗茶人のすることなのです。
『南方録』に「茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり」とありますが、円虚清浄の一心の器を一生をかけて磨き続ける姿勢こそ、私たち茶人には、大切なことであり、一生涯を投じた使命なのです。
慧遠法師という浄土教の興隆につとめたお坊さんの提唱に「沙門不敬王者論」ものがあります。
これは、時の有力者で権力者であった桓玄が仏教に反対して、沙門も王者に敬礼するように要求したことに対して、慧遠法師は、仏教のもつ純粋性と平等性を説き、出家者は、王に対して敬礼、屈服しなくてもよしとする、論を提唱したことから、始まります。
茶道でも、躙り口が刀を持って入れないように工夫されているように、茶道は、身分をこえた直心の交わりを理想とします。
すべての人には、仏性という清らかな心をもっています。
それゆえ、茶人は、世俗の習慣や慣習を持ち込み、人により態度を変え、茶道の世界から、仏心を遠ざけるような行動、純粋で自由な平等な世界を打ち壊すような行動は、気を付けなければならないのです。
どんな人にも分け隔てのない立ち振る舞いが茶道では、大切なことであり、茶人は、慧遠法師の説いた出家者的態度を堂々と貫くということも時には、必要になってくるのです。
そのような行動から、茶道が理想とする清浄無垢な世界は生まれてくるのではないでしょうか。
茶道の清らかな心とは、一切のはからいを捨てきったところにあるものであり、ありのまま、あるがままの自然体そのものの、仏菩薩の清浄無垢な世界をあらわすものであります。
『禅茶録』の禅茶器の事の最後の部分にこのようなことが書いています。
如是成就したるを、天地同一圓照清浄の宝器とす
此を禅茶の器と称す、古甌陳器非常の奇玩をば、何の宝とかせむ
通釈
このようなことが成し遂げられたならば、天と地も何一つ違わず自分と同じとなり、この世のすべての物と自分が一体一味であることを実感し、そのことを体現することができます。
自分自身が世界の建立者となり、その世界は大宇宙そのものであり、一つの汚れも曇りもない、煌々と輝く満月のような清らかな宝器となるのです。
この実現した姿こそ「禅茶の器」というのです。
私の本来の面目や本性たるを悟った「一心」そのもののことであるのです。
それを悟っているのに、名物とよばれる歴史のある茶道具や珍しい茶道具などを、宝物として貪ることがあるのでしょうか。
人を傷つけ、苦しめ、怯えさせるお茶は、お茶ではありません。
主客ともに相手を傷つけず、苦しめず、怯えさせないように、工夫するべきであり、その励む姿勢から、理想的茶世界は生まれてくるのだと思います。
そのうえ、一生涯をかけて、心を磨き、耕していく覚悟をもつことが、茶人には、必要なのです。
そのような絶え間のない不断の努力により、清浄心の在処が見えてくるのです。
お茶とは「口と心で味わい美味く、後味がよいお茶をふるまうこと、いただくこと」が理想であると私は思うのです。
その理想の実現には、いうまでもなく、清らかな心、菩薩心が欠かせません。
この清らかな心を持っているのだと信じ、修行していくことが志ある茶人には、必要なことだと思うのであります。
お茶は、菩薩の道であります。
弘法大師空海さまが「菩薩の用心は、みな慈悲をもって本とし、利他をもって先とす」といわれたように、主客ともにこの菩薩心をもって、交わることができたなら、これ以上の美しき世界は、一期一期の交感はないのではないでしょうか。
この実現を願い、皆様と共に一心に修行していきたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
沙門 宗芯清竜