新年が明け、世の中にはいまだおめでたい空気が残っておりますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
私はと申しますと、今年の元旦は、どうも素直に「めでたい」とは申せない心持ちで迎えることとなりました。
早朝、家族から「あけましておめでとう」と声を掛けられ、とっさに同じ言葉を返したものの、その直後、ふと立ち止まって考え込んでしまったのです。
今日という日を苦しみの中で迎えておられる方がいる。
辛く、悲しく、とても「めでたい」とは思えない思いで新年を迎えられた方もおられる。
そのような中で、果たして自分は「めでたい」と言ってよいのだろうか。思ってよいのだろうか・・そんな思いが胸をよぎりました。
もっとも、そのような思いを口にするには、あまりに世の中は明るく、賑やかでありましたので、いつもと変わらず大福茶のために茶室に釜をかけ、家族とともに静かに新年の一服をいただき、今年の無病息災を祈りました。
さて、仏教には苾蒭戒と呼ばれる戒律がございます。
具足戒、あるいは比丘戒・比丘尼戒とも称され、出家して正式な修行僧となった者が受けることのできる戒律でございます。
比丘は二百五十戒、比丘尼は三百四十八戒を守るべきものとされております。
弘法大師空海さまも三十一歳の折、東大寺戒壇院にて具足戒を受けられ、その後、命がけで唐へと渡られました。
思えば私自身も、高野山で出家させていただく以前に、東大寺において管長猊下より菩薩十善戒を授かっており、今振り返るほどに、何とも有難いご縁とお導きを感じずにはおれません。
具足戒の始まりは「善来具足戒」にあると伝えられています。
お釈迦さまが成道を遂げられた後、サールナートにおいて初めて法を説かれた折のことです。
尊者コンダンニャは、真理を見、真理を得、真理を知り、真理に没入し、疑いを超え、惑いを去り、確信を得て、師の教えのうちにあって、他の人にたよることのない境地にあったので、世尊にいいました。
「世尊よ、どうか私を出家させ、完全な戒をお授けください」
それに対し、お釈迦さまはただ一言、申します。
「来たれ、修行者よ。真理はよく説かれた。正しく苦を滅するため、清らかな行いを修しなさい」
とお答えになりました。
この一言によって、尊者は比丘となったのであります。
同じく舎利子尊者が五百人の修行者を連れて来た際にも「善来、比丘。梵行を修すべし」とお釈迦さまはただ仰せになったと伝えられています。
やがて「帰依仏、帰依法、帰依僧」という「三帰依」が説かれるようになり、仏・法・僧の三宝を大切にする誓いが、出家在家を問わず、仏道の基本として受け継がれていきました。
また三聚浄戒という教えも仏教では説かれています。
摂律儀戒、摂善法戒、摂衆生戒という三つの戒です。
悪をさけ、善を行い、人々を助けていくという三つの戒であります。
摂律儀戒とは、十善戒などの戒律を守ることであります。
戒を意識することで悪を遠ざけるということにつながるのです。
摂善法戒とは、六波羅蜜行の修行をしていくということであります。
一番初めにくる布施は施しをいいます。何かを人々に施していくということであり、物を施すばかりではなく、怖がらせない、和やかな表情をする、優しい言葉をかけるなども施しになります。
二番目に大切なのが、持戒で、よい習慣をつくることです。
三番目は、忍辱で、どんな苦難にも堪え忍ぶことです。
梶浦逸外老師が申したように、耐え忍んでいれば、必ず道は開けるのです。
四番目が、精進で、怠けずにひたすら努め励むことです。
五番目が、禅定で、動じない心を養い、静かなる心を調えることです。
六番目が、智慧で、正しくものをみつめることです。
摂衆生戒とは、人々に寄り添い、助けることをいい、四無量心ともいわれているようです。
「慈・悲・喜・捨」の四つの心を四無量心といいます。
生きとし生けるものを慈しむ心。
生きとし生けるものの悲しみを自分ごととして受け止め、ともに悲しむ心。
生きとし生けるものが安楽を実現することをともに喜ぶ心。
どのような人にも差別なく接し、平等に交わる心。
これらの四つの心をいいます。
日本で親しまれてきた「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」の七仏通戒偈も、この精神を端的に表しているといえます。
仏教というと難解な教えのように思われがちですが、実のところ、この十六字に、仏教の要が凝縮されているともいえます。
私自身、高野山にて苾蒭戒を受け、一介の比丘として戒を守ろうと努めておりますが、守ろうとすればするほど、守り切れない己の愚かさを思い知らされる日々であります。
慚愧懺悔の尽きることはない毎日でございます。
ある時「戒を守ろうとして、楽しいのですか」と尋ねられたことがありました。
戒とは、自らを縛り、苦しめるものではありません。
むしろ、心を放逸から守り、安らかな日々を生きるための拠り所であると、私は感じております。
人から見れば、面白みのない、楽しげでもない人生に映るのかもしれません。
それでも私にとっては、これ以上ない、かけがえのない幸せであり、最上の生きる道であります。
お釈迦さまは入滅に際し「戒は第一の安穏功徳の住処である」と弟子たちに示されました。
戒を持ち、保とうと努めること自体が、すでに安楽への道なのだと思わされます。
さて、茶道では、長時間正座をしてお稽古をします。
正座に慣れていない方であれば、それは苦痛でありますが、しだいに身体が慣れてきますと何時間だろうと、一日中であろうと苦痛には感じなくなります。
むしろ、目の前のお茶に全集中していけるため、これ以上のない喜びが待っているのであります。
「微風吹幽松 近聴声愈好」松にそよ風が吹く。近づけば近づくほど、その音色は心地よく感じる。という意味でございますが、道も深めていけばいくほど、なんとも心地の良い世界なのだろうと気づけるのであります。
茶道といえば、作法にうるさい、型にうるさいと思われがちでありますが、実のところそれらは、先にある安らぎを得るための通り道でしかないのだろうと思うのです。
弘法大師空海さまの「初発心の時に、直に心の実際に住して諸法を摂す」というお言葉も、折に触れて胸に響きます。
出家したときの初心に立ち返りながら、茶道と仏道を、ただ静かに歩んでいければと願うばかりです。
私は良寛さまの「何故に家を出でしと折りふしは 心に愧ぢよ墨染の衣」という歌を、常に心に留めております。
今身に着けさせていただいている法衣も、十徳も、愚かな自分にはあまりに重く、ふさわしいものとは申せません。
それでも、持戒の思いがいずれ戒香となり、わずかでも人のために、道のために香ることができるならば、お茶の清らかな風が目の前の人に届くのであれば、その一念をもって、与えられた道を歩んでいくほかはありません。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
茶僧 宗芯清竜
