颯々の声が耳から心へと吹き抜け、心が洗われ、その風より時同じく流れる雲に美しさを感じる今日ですね。
このように感じられる今日に感謝でございます。
さて、普段の茶道のお稽古を皆様はどのようになされておりますか。
世俗を忘れて、御茶一服を静かにいただくのもまたよいものですが、お稽古という言葉がある以上、その心得も心の内にとどめることもまた、茶道の修行者として必要だと思いますので、この度は、茶道の稽古の心得についてお話させていただきます。
まずお稽古の心得には、三カ条ございます。
稽古の心得
一、このたびのこの稽古は、初めてするものとおもうこと。
二、このたびのこの稽古は、今生最後の一点前だと思うこと。
三、このたびのこの稽古は、自分一人のためにあると思うこと。
茶道を上達させるためには、どんな稽古も初めて受けるような気持ちでしっかり向き合い、この稽古は、今生で最後かもしれないといった深い気持ちで一点前を真剣に臨み、この稽古は、自分のためだけに開かれているのだといった気持ちで受けとめるなどといった心得は大切だといえます。
これは仏道のみ教えを聞くという聞法にも通じています。
そして、稽古中は世間話を慎み、師匠のお話にしっかり耳を傾け、社中の仲間を思いやり、注意を受けている人がいたらその注意を他人事と思わず、自分事のようにとらえ、質問や疑問は、稽古が終わってから個別で師匠にお尋ねしましょう。
清らかな香を聞きながら、茶釜の声や炭のカチカチコチコチという音、雨音や小鳥のさえずり、床の間に掛けられている墨跡や古筆に歌切れ、消息、美しいお道具の数々についての問答、茶の湯の話、和歌や漢詩の世界に心と耳を全力で寄せてみましょう。
きっと得るものがたくさんあると思います。
茶道は、繰り返しの稽古を着実に重ねていくことが大切とされております。
長年直向きに稽古を重ねてこられたお師匠方は、身と言葉が慎み深く、智慧と慈悲に溢れ、立ち居振る舞い、心の働き方も美しいものがあります。
それは、稽古中に己を厳しく律し、積まれてきたからこそ現れ出る美しい光明といえます。
そのようなお師匠方とお会いするととても感銘を受けるものです。
茶道は、一服のお茶で「心の苦しみ、心の渇きが自然と癒える」ことを理想としております。
この心の渇きを癒す方法は、正しく稽古を重ねていくことで自然と会得していきます。
自分のためだけにしていた稽古が人のためにも稽古を重ねる時期がくるように、心の向きが自利から利他へと変わる日が必ず訪れます。
この心の向きが今そばにいる人に全力で向いている時より、心に輝きを宿している自分の姿を見出すことができます。
その時にまた、人と人の交流の有難味、一期一期をあらためてかみしめることができるようになります。
私のお師僧さまも「鑑真和上が命を賭けて日本にわたり仏教を根付かせ、弘法大師も大変な苦労をして密教を日本に伝えました。命が大切であることは当然のことであるが、時には、命を賭してでもなすべきことがあります。あなたが命を賭してでもするべきことがあるとするなら、それは、人々を救う仏の道を歩むことです。そのことを深く心にとどめ、道を歩んでいってください」といったお言葉をいただきました。
このお言葉をいただき、フッと思い浮かんだ人物こそ千利休です。
豊臣秀吉公より切腹を申しつけられた時、利休居士は、命乞いもできたはずです。
それをせずに切腹をして果てたそのお心には、命を賭してでも茶道の誇りを、茶道の清浄無垢な世界を守りたいとする気持ちがあったように私は感じるのです。
利休居士が命惜しさに命乞いをして、首を天下人に垂れていれば、茶道は、俗茶に成り下がり、天下の有力者にこびへつらうものになっていたでしょう。
利休居士の目指した理想は、仏菩薩の清浄無垢な世界ともいわれています。
この理想を私は、実現したいというおもいとともに、茶道は仏道修行であるとあらためて皆様にお伝えしたいです。
利休居士の志を受け継いでいるのかを考えさせられる毎日では、ございますが、命を賭けてでもなしたい、仏道や菩薩道が芯にある茶道の探求、人々に寄り添うことのできるお茶です。
さて、少し話が脱線してしまいましたが、人生はこの一呼吸で終える。といった表現があるように生への一瞬一瞬はかけがえのないものといえます。
多くの人はその一瞬の尊さに気づかずに過ごしてしまいますが、稽古の中でその尊さは見つけることはできるのではないでしょうか。
釜の過ぎ去りし声や湯気の現れ消えるところ、炭がだんだんと燃えて黒から白へと変わるところ、花の一瞬の移ろいの変化、一服のお茶が身体や心を通る瞬間などたくさん見つけることができると思います。
坂村真民先生という仏教詩人の詩に「念ずれば花ひらく」というものがあります。
短い詩ですが、とても美しい言葉の数々なのでご紹介いたします。
苦しいとき
母がいつも口にしていた
このことば
わたしもいつのころからか
となえるようになった
そうしてそのたび
わたしの花がふしぎと
ひとつひとつ
ひらいていった
私たち人が生きていくということは、本当に大変なことであります。
ましてや家族や学校、仕事などを抱えている方にとって、休みの日に茶道のお稽古に通われるということは、とてもすごいことであります。
人は、元来怠けていたいものなのです。
どうしたら楽ができるかなど考えている生き物なのです。
そんな気持ちに負けずにお稽古に熱心に通われるということは、本当にすごいことなのです。
私のお弟子さんにも、お一人とても熱心な方がおりまして、その方から学ぶことも多くあります。
確固たる信念に裏付けられた茶道への思いと願いがあり、こうありたい、こうなりたいと念ずる思いのある方で、誰よりも輝いて見えます。
私たち人の人生は、苦しいことであふれております。
時に厳しい困難に直面して、生きることさえ嫌になることだってあると思います。
そんなとき、一つ念ずる思いがあれば、必ずその時に念じる思いが助けに現れてくれます。
道があれば、どんな苦しい時にぶつかったとしても、その道が先の道を指し示してくれます。
坂村真民先生の詩のように必ず花開くことを信じる気持ちを持っていれば、私たちの人生は、必ず開いていくのです。
『華厳経』の一節に「信は、道元功徳の母たり」という言葉があります。
信というものは、道の根本であり、あらゆる功徳を生じさせるものであるという意味です。
それぞれが自分なりの茶道が必ず大成することを信じて歩んでいけることを願っております。
社中の皆様もこの一瞬一瞬を大切に稽古に精進していきましょう。
最後に私がフッと思ったことをのせます。
生きるに苦しく
老いるも苦しい
病はこわい
死ぬもこわい
そんな時こそ感じてみよう
私の一輪の花を
たしかに咲く
一輪の花を
微笑んでみよう
私の一輪の花に
沙門 宗芯清竜