先日、お稽古をはじめて4年ほどの女の子が来庵され、そこではたくさんの素敵なお話を聞かせていただきました。
その女の子の茶道に向けた姿勢からお弟子さんも多くの学びがあったようで、実りある一日でございました。
女の子は、学校での作文のお話をしてくださり「責任のもてる人になりたい」ということを書きました!とお話をしてくれました。
嬉しいお話を聞かせていただき、心がホッとしました。
兄弟でお稽古に通ってくれているのですが、お兄ちゃんは、将来、抹茶をつくる茶農家さんになりたいという目標を茶道をはじめてから志しており、とても有難いことです。
お二人の姿勢から多く学ばされ、お二人を立派にお育てになっているお母さま、お父さまに頭が下がる思いです。
さて、茶道には、いくつもの川があるようにさまざまな流派があります。
その流派の型のみにとらわれない茶道のあり方を模索し、探求した奥田正造という教育者はご存知でしょうか。
奥田先生は、茶の湯の基礎を幼時に表千家流を学びことにより培われ、大学卒業後は、有楽流を学び、色々と思案したうえで独自の点前を考案して「法母庵茶道」を作り上げられました。
しかし、家元・流派を称することは生涯しなかったようです。
奥田先生の茶道に向けた想いのすべては『茶味』というご著書に込められています。
この『茶味』の中に「茶境」という言葉が出てくるのでご紹介いたします。
茶境とは
主客共に世塵のけがれを洗い去って、静寂の中相和し、相敬し、油然として楽の心に叶うとき
之を茶境という
茶境とは(私なりにわかりやすくしました)
主客ともに世俗のけがれを清め、静かなる中に和して、相手を敬い合い
わきおこるような楽しき幸福に心が叶うとき
これをお茶のあるところという
茶境とは互いに敬い、思い合う和顔愛語に満ち満ちた雰囲気の中で現れる安らかな幸福ということができるのではないでしょうか。
そんな安らかでホッとできる茶道に私たちは、惹かれたりするのだと思います。
また、茶道の世界は、仏菩薩の世界であり、仏心の交わりがあるところであります。
心の内の仏を相手とし、仏心の交わりを喜び合う瞬間に確かな幸福があります。
確かな幸福をお茶の中で互いに共有し合うためにも三毒(むさぼり、いかり、おろかさ)に毒されることに気を付けながら、仏さまのような和やかな顔、思いやりに溢れた言葉を日常から大切にしていきましょう。
お釈迦様の最後のみ教えとしてまとめられた『仏遺教経』というお経があります。
その中でお釈迦様は、亡くなられる前に弟子たちに八つの大人の自覚について説かれたとされています。
この自覚のことを「八大人覚」といいます。
ここでいう大人とは、菩薩のことをいい、八大自覚とは仏になろうとする菩薩の根源におかれる八つの約束事のようなものであります。
茶道を修行する者にとってもこの「八大人覚」の教えは大切な心がけだと思いますのでご紹介いたします。
一 少欲
私たち人は欲を無くせといわれても難しいでしょう。
三大欲のみならず108の煩悩を抱える私たち凡夫の心を見透かされていたお釈迦様は、無欲を説かず、欲は少なく生きなさいと説かれました。
欲少なく生きるところに真の心の安らぎを得られるということであります。
有り合わせのお道具、最小限のお道具でも茶の湯を楽しむこともでき、精一杯のおもてなしの気持ちがあれば、相手は喜んでくれます。
二 知足
茶道の世界でもよく聞く言葉であり、足ることを知るということであります。
本能欲望のままに生きていくと、その欲望や本能に振り回され、かえって大きな苦悩を抱えてしまいます。
これで十分だと知る心に安らぎがあります。
高価な茶道具をたくさん貪るようなあり方は、苦しいのではないでしょうか。
茶道具は、これだけで十分だと思える心に安らぎを感じることができます。
多くの茶道具を抱えてしまうと、用いることがなくなり、お道具は次第に死んでしまいます。
三 楽寂静
静けさの中に安らぎと楽しさを感じるということであります。
情報が大きな波のように押し寄せてくる現代だからこそ考えてみなければなりません。
テレビ、ネットから情報を得ては、苦しいおもいを抱いたことはないでしょうか。
時にはそういうものから離れて、静けさのある中で自己を見つめることも人生を豊かに生きるためには、大切なことです。
情報を上手く使いこなすだけではなく、時には、その情報の海から離れられる余裕のある人になりましょう。
静寂を尊ぶ茶道には、この楽寂静に出会える瞬間がたくさんあります。
四 勤精進
今につとめ励んでいくところに道があります。
その道をひたすらにわき目を振らずにつき進んでいくということであります。
今を精一杯に励み、雑に生きず、人生を豊かに生き尽くしていきましょう。
茶道のお稽古にも只管に精進していく姿勢に勤精進のあり方を見出すことができます。
そんな直向きな姿勢にこそ、自分の輝きを見出すことができます。
五 不忘念
正しく仏法を守り、仏を心に念じて忘れないということであります。
仏教や茶道の教えは、茶室の中だけではなく日常や人生でも生かしていかなければならないのではないでしょうか。
茶人の覚悟ある者こそいつも茶道の心、仏教の教えを忘れず心に念じていく必要があります。
煩悩におかされ、本能欲望に打ち負けるのはこの念じる心が弱いからだとされています。
忘念は、結果的に自分を傷つけ、相手を攻撃してしまいます。
自分を苦しめ、相手を苦しめるお茶は、お茶ではありません。
六 修禅定
いかなることにも心を乱さないようにするということであります。
一つのことに全集中して心を静めることも大切です。
お点前をはじめる時、必ず居ずまいを正すと思います。
これは、高ぶる心を静め、一服のお茶を美味しく点てることに集中するためです。
また、一服のお茶を点て、無心にいただく瞬間に心の静寂が現れます。
七 修智慧
聞思修証ともいい、仏のような正しい智慧を磨き続けることは、茶人たちにとって、とても大切なことです。
高齢の先生が「茶道は一生お勉強」という言葉をお話くださいます。
これでよい!これで完璧!というものがないのが茶道です。
絶え間のない努力は、智慧を磨き、その智慧の力は、この世を歩むうえでの大きな助けとなります。
智慧は、力強い灯火になります。
古の茶人、高僧祖師の教えをいただき、実践していくところに尊い茶道のあり方を見出すことができるのではないでしょうか。
八 不戯論
無益な争い、心が乱れるような話はしないということです。
無用な分別が大きな争いごとに発展し、憎み合いやすい私たちだからこそ気を付けなければならないのではないでしょうか。
今すべき大事に目を向けて全力で取り組む大切さをお釈迦様は、大人の大事として説いておられます。
茶道を志している者同士、無益な争い、人を傷つけるような話はせず仲良くしましょう。
互いに敬い、和していくところに確かな幸福、茶境があります。
そのためにも、茶道の世界を茶人たちは、争い合うような世界にしないように最大限心する必要があります。
茶境とは、妙なる仏菩薩の清浄無垢な世界の現出なのです。
一畳半の極小の茶室から大広間まで仏菩薩の御心が現れないところはありません。
一心に茶道仏道を求め、移り変わりやすい世においても、動じない茶人たちの心意気が今の世には、必要だと私は思っています。
本来、茶道は大自由であり、執着のない理想郷であります。
しかしながら、それを盾に人を傷つけ、自分勝手に振舞っていいものではありません。
表面では、美辞麗句をならべたて、裏では、悪口をいうことは茶道の本意ではありません。
人と人の交わり、茶道は礼が大切だからと言いながら、どちらが優れているか、どちらが偉いかなど心ではかり、人によって立ち振る舞いを変えることは、見苦しいことです。
自分や相手を苦しめるお茶はお茶ではありません。
それはただの俗茶なのです。
茶道は、妙心の交わりであり、嘘偽りのない魂と魂の対峙なのです。
仏菩薩の清浄無垢な世界、その理想を実現するためにも、怠ることなく努めていきたいものです。
最後までお読みいただきありがとうございます。
沙門 宗芯清竜