先日は、地方に赴き、色々なところでお世話になりました。
たくさんの人の温かな笑顔に触れることができて、とても心の温まる日々を過ごすことができました。
そこでは、ご自分で育てられたというお野菜をたくさん頂戴して、何とも有難い気持ちになりました。
身近な慈悲の実践として『雑宝蔵経』に説かれる「無財の七施」があります。
文字の通り、財がなくともできる布施行であり、日々の中ですぐに実践することができるものです。
仏教では、戒という善き習慣を身に着けることが、心に本当の安らぎをもたらすのだと説きますが、その安らぎの境地に至る仏道修行として「六波羅蜜行」があります。
布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧の六つで構成されているものですが、その第一におかれているのが、見返りを求めず、慈悲の心をもって、施すという、布施の行です。
まさに、菩薩の行でもあるのです。
「布」は分け隔てなく「施」ほどこすという意味があります。
どんな人にも分け隔てなく、等しく、慈悲をたむけることができる人の心が清らかであることも大切でありますが、その布施の内容も清らかな内容であることが大切であるとされています。
けして見返りを求めたり、損得勘定での布施は、本当の布施とはいえないのです。
相手の笑顔や幸せが「私の幸せ」だからと絶え間のない布施のできる心が真の慈悲慈愛の菩薩心の在処であり、そのような気持ちで行う無財の七施には「大いなる果報を得る」と『雑宝蔵経』には説かれています。
周りの人々に安心を与え、和やかな気持ちにさせる布施の行いこそ「無財の七施」の教えであり、心を磨き、耕すことのできる身近な実践といえるのです。
「人にされたら嫌なことはしない、人にされて嬉しいことは、しなさい」と親に教えられて育った方は多いと思います。
その教えを今も実践していますか?
簡単に思えることですが、なかなか大人でも難しいものです。
笑顔で接してもらえたらとても嬉しくなるものです。
だから笑顔で人々に接していくのです。
悪口を言われたら嫌な気持ちになるでしょう。
だから悪口ではなく、思いやりに溢れた言葉を贈るのです。
「ありがとう」といわれたらにこやかに「ありがとう」とお返事、合掌をされたら、頭を下げられたら、自分も同じようにする、このような人々の営みのなかに、理想的社会があるのです。
自分がされて嬉しいと思うこと、嫌だとおもうことは、相手も同じように思うのだと、思いやりの心を持つのです。
その、思いやりの心こそ、仏さまの心そのものであり、私たちの人生を実り豊かに、幸せに生きるヒントなのです。
一切衆生悉有仏性、生きとし生けるものすべてが仏さまの心をいただいているのです。
お釈迦様の言葉を記した『法句経』には、次のような言葉があります。
129 すべての者は、暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
130 すべての者は、暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は、愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
131 生きとし生ける者は、幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害するならば、その人は自分の幸せをもとめていても、死後には幸せが得られない。
132 生きとし生ける者は、幸せをもとめている。もしも暴力によって生きものを害しないならば、その人は自分の幸せをもとめているが、死後には幸せが得られる。
133 荒々しいことばを言うな。言われた人々は汝に言い返すであろう。怒りを含んだことばは苦痛である。報復が汝の身に至るであろう。
伝教大師さまの言葉として有名な「悪事は己に向かえ、好事は他に与え、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」とあるように菩薩の心は、人々を救わんとする心、人々のもろもろの苦しみを引け受け、人々に楽を与えようと励む心であります。
そのような心のあり方こそ、慈悲の極みというのです。
その基本となる心の中には、四つの徳目を持っていなければなりません。
人々に惜しみなく、分け隔てなく、施し与える布施の行、清流のように絶え間のない慈愛にみちた言葉をおくる愛語、自分ではなく、他人のためを優先する利行、もろもろ行いに幸せを感じ、他人と喜んで協力し合う同事で構成されています。
茶道の中でも、この菩薩心を持って、実践していかなければなりません。
さて、慈悲の実践である無財の七施をすみやかに実行して、一人一人が菩薩の道を歩み、茶道の修行に励んでいきましょう。
・眼施(げんせ)
優しい眼で人々に接する心
人を憂うと書いて、優しいといいます。
その優しい気持ちを心に持ち、温かな眼差しを相手に向けましょう。
相手を思いやりながら見つめていると、人に安心感を与えるものです。
そうすることで、自然と和やかな空間があらわれてくるのです。
・和顔施(わげんせ)
和やかな顔で接する心
顔ほど正直なものはありません。苦虫をかみ潰したような表情は、人を不快にするものです。
明るく、満面の笑顔を見ると、人は幸せを感じます。
楽しいから笑うのではない、笑うからたのしいのだ・・といった芸人さんがおられましたが、まさに「笑う門には福来る」なのです。
どんなに苦しいことがあっても、にこやかな笑顔で過ごしていると、災いは遠くに過ぎ去るものです。
・言辞施(ごんじせ)
慈愛に溢れた言葉で接する心
茶道の中でも大切な心といわれる愛語です。
道元禅師の「菩提薩埵四摂法」の巻の中には、愛語についての言葉があります。
「愛語と云は、衆生を見るにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」とあります。
愛語という優しさに溢れた言葉とは、生きとし生けるものに対し向ける慈愛の深い気持ちをおこし、相手に思いやりのことばを用いることだと説かれています。
言霊というように、私たちの言葉には、力があります。
相手を生かすことも、殺すこともできてしまう、言葉なのです。
生きる言葉を使うことで、自分も相手も幸せになるのです。
・身施(しんせ)
自分の身体を使って、人々に尽くす心
茶道の一挙手一投足の中にも、この心がなくてはなりません。
お点前は、身体を使った、思いやりの心の表現なのです。
御茶を差し出すときも、いただくときも、全身で尽くすのです。
相手を心では想っていても、行動で実践しなければ、それはないのと同じなのです。
善いと思ったのならば、進んで行動していき、その尽くす中に、相手の幸せも、自己の心の高まりも感じることができるのです。
・心施(しんせ)
人々のために心をくばる心
仏教では、心が大切だと説くように、茶道でも心の働きが大切だと説きます。
心の働き方によって、行動も表情も変わるように、心が暗いままでは、すべてが暗く見えてしまうものです。
心を明るく、人々に心をくばることで、まさに世界の一隅が自分の心が照らされてくるのです。
「菩薩の用心は、みな慈悲をもって本とし・・」と弘法大師さまがおっしゃられたように、相手をいたわり、慈しむ心、相手が悩み悲しんでいたら、同じように悩み悲しむ心が大切なのです。
このような慈悲の心を持っていれば、自然と表情や行動に現れてくるものです。
・床座施(しょうざせ)
自分の席や場所を譲る心
電車に乗っているとスマホばかり見ている方が多くいます。
最近だと若者ばかりではなく、ご年配の方まで、スマホを見ています。
そこに妊婦さんや足の痛そうなご老人がきても、誰も気づきません。
そんなときこそ、自分の席を譲る心を持ちたいものです。
これは座席だけではなく、すべてのものは、みんなと分かち合い、譲りあう心が大切だということです。
自分さえよければいい、という考えはあまりに貧しいものなのです。
ましてや、自分の持っているもの、地位ばかりに固執していては、世界が滞ってしまうものなのです。
・房舎施(ぼうじゃせ)
雨や風をしのげるようにしてあげる心、自分の家に招く心
雨や風をしのげるようにしてあげるという意味があります。
さて、普段から掃除につとめ、気持ちよく人をおもてなしできる環境をつくっていきましょう。
四国では、お遍路さんをおもてなしする「お接待」というものがあり、そこでは、無償で家に泊まらせ、休息の場所を提供する優しい心で溢れているようです。
見ず知らずの人をおもてなしするということは、なかなかできるものではありません。
お弟子さんと京都に行ったとき、大雨にあたったことがあります。
そこで、コンビニに行き、傘を買おうか悩んでいたら、一人の店員おばあちゃんが近づいてきて「お困りですか」とお声をかけてくださり「少し困っています」というと「ちょっと待ってね」といい、お店の奥に入っていきました。
すると「この傘使って」と温かい笑顔で渡してくださり「いえ買わせていただきます」というと、ぐっと傘を渡され「もう一つ、傘があるからいいのよ。もし雨や風で困っている人がいたら、その人を助けてあげてね」といい、にこやかに去っていきました。
まさに菩薩さまのようなお方でありました。
茶道でも「飢来飯渇来茶」の心、お腹がすいたらいつでも、ご飯を食べにきてください、喉が渇いたら、いつでもお茶を飲みにきてくださいという心が大切だとされています。
三友庵でも、この心を大切に多くの方をお迎えさせていただいています。
茶道の中でもこの無財の七施は大切な心であり、実践していかなければなりません。
日常での生活態度が出る、茶道だからこそ、日常の中で布施の行を実践して、茶道の世界でも発揮していきたいものです。
人を苦しめ、傷つけるお茶はお茶ではありません。
和顔愛語に満ち満ちた優しい世界も茶道の理想とするところであります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
沙門 宗芯清竜