一陣の風がなんとも心地のよい今日であります。
さて、よく経をあげる方であれば、聞き慣れていると思います、十善戒ですが、こちらは、仏教でいう十の悪業を否定形にしたものとされ、十の善い行いを定めた戒律とされています。
また、菩薩の身口意の実践行ともいわれることから、菩薩十善戒ともいわれており、菩薩行に重きをおく大乗仏教では、最も大切な戒律ともいわれています。
とくに江戸時代に活躍された慈雲尊者が、民衆に最も基本の仏道修行の実践として、その十善戒の重要性を説き、戒律の復興に努めた話は有名です。
その内容は以下の通りです。
菩薩十善戒
不殺生 生物を殺さないようにしましょう。
不偸盗 盗みをしないようにしましょう。
不邪淫 よこしまな淫欲にふけらないようにしましょう。
不妄語 嘘や偽りを言わないにしましょう。
不綺語 真実に背いて巧みに飾り立てた言葉を使わないようにしましょう。
不悪口 人の悪口を言わないようにしましょう。
不両舌 両方の人に違った事を言い両者を離間し争わせないようにしましょう。
不慳貪 自己の欲するものに執着して、貪らないようにしましょう。
不瞋恚 怒り憎しむことをしないようにしましょう。
不邪見 因果の道理を無視する妄見を働かせないようにしましょう。
十善戒は、守らなければ地獄に落ち、閻魔様のお裁きに・・というものではなく、自らに災いをもたらせないようにする戒めともいえるものであります。
私たちの心の中には、無数の災いへの扉があり、それを戸締りするための鍵に十善戒はなると東大寺の橋村公英管長猊下は説かれました。
例えば、この物がほしい!あの人に好きになってもらいたい!という貪る感情が過剰になりすぎ、それが叶わない場合、それはだんだんと怒りになり、憎しみになり、苦しいおもいをするようになります。
それこそ災いの扉が開いているといえるのです。
人様にいう悪口も最初の「馬鹿」がだんだんと大きくなり、いつの日か「死ね」という言葉に変わり、不瞋恚、怒りに憎しみに心が支配されるものです。
それこそ、火の落ち着いた頃には、ネガティブになり、周りの人からも煙たがられているものなのです。
ましてや、その言葉がきっかけで死んでしまったらとても後悔すると思うのです。
心にないお世辞も嘘であり、過剰に飾った言葉も嘘であり、それこそ、小さな嘘も癖のようについていると、しだいに大きな嘘になり、嘘で塗り固めた人生を歩まなければいけなくなるのです。
そうなってしまっては、取り返しのつかないことを招き、失うものも多いのです。
生き物を殺さないということも、生きとし生けるものを害さないという意味でもありますが、遅刻をして人様の時間を奪うことも、その人の命の時間をいただいている以上、殺生であり、盗みをしているともいえるのです。
命を奪うことに慣れてしまうと、自らの命もしだいに軽視するようになるもので、それこそ、とどまりの知らない殺しの道をゆくようなものなのです。
そのような生き方をしていれば、どのようなことを招くかは、いうまでもありません。
このように一つにとどまらず結果すべてに影響を及ぼすものが、この戒律の特徴ともいえます。
苦しい人生、災いのやまない人生を終わらせるためにも、この十善戒は大切なのです。
このような働きには、必ず私たちの六根が互いに影響を及ぼしており、六根とは、六つの大根のことではなく、眼、耳、鼻、舌、身、意の働きをいいます。
私たちは、見るものも聞くものも感じているものも、心の働きも誰一人違います。
これを仏教では、基本としておりますが、その時にどのような行動をとれるかが、人生の分かれ道をつくるのです。
さて、六根が外の世界に触れることで、私たちは、それにあった反応を示すのですが、大まかに三つの反応が現れるとされています。
一つは快感情にもとづいた「好き、楽しい、心地よい」二つ目は不快感情にもとづいた「嫌い、楽しくない、不愉快だな」という反応です。
もう一つは無関心にもとづく「どうでもいい」という反応です。
仏教は、この三つの反応があるからこそ、迷い苦しむのだと考えています。
苦しみの源泉といわれる、三毒、貪り、怒り、愚痴もこの反応によって生ずるもので、例えば、好きや楽しいというおもいが過剰になれば、強烈な貪りの執着を生み、嫌い、楽しくないという感情が出てくると、それは、強い怒り、憎しみになってしまいます。
茶道でも「茶道具が好き!」となり、自分の身の丈に合ったお茶道具内での楽しみにおさまれば、よいのですが、あのお茶碗がほしい、あの釜がほしいといたずらに貪れば、それは、だんだん苦しくなるもので、ほしいという感情が叶わなければ、それは、怒りになるのです。
このように貪りや怒りなどの苦しみを生み出すということは、分かりやすいものですが、最も気を付けなければいけないものが「どうでもいい」という、無関心の反応です。
いじめも一番酷な状況は、まわりの無関心「どうでもいい」という反応だとされていますが、この無関心こそ、仏教では、一番気を付けなければならないとされています。
これが仏教で説く「愚痴」というものです。
知ろうともせず、関わろうともせず、終始、無関心を貫く、これこそ仏教は、一番深い心の迷いを生み出すものだと説きます。
それこそ、この何をやっても変わらない人生なんて「どうでもいい」となれば、「どうしたら幸せになるだろうか。本当の自分らしく生きられるだろうか」と考えることを放棄することにもつながり、それでは、なかなか幸せをつかみづらくなるものです。
それでは、この素晴らしい人生勿体無いではありませんか。
道元禅師は「生死の中の善生、最勝の生なるべし」という言葉を残していますが、この人生、最も優れたものにせず、無常にまかせて、この人生を終えることは、悲しいことではないでしょうか。
さて、この十善戒ですが、やはり茶道でも大切な教えだと思うのです。
茶道は、私たちの日常での生活態度を示していることは、いうまでもなく、日常での立ち振る舞いが茶道の中でも発揮されるものなのです。
茶室だけで、茶人然とそれらしく振舞い、日常では、そうではないというあり方は、茶人にとって望ましい姿とはいえないのです。
それこそ、お茶席では「素晴らしいお席で・・」といいながら、一歩お茶席から出れば悪口をいうことは、戒めなければなりません。
茶道は、人間の修行道場であり、絶え間のない善への希求なのです。
だからこそ、日常での生活態度というものには、気を付けなければならないのです。
常にお釈迦様の心、教えにかえりみて、茶道の幾多の教えにもどり、懺悔慚愧の中、自ら反省することが本来の布薩であり、その上、絶え間のない礼拝の中で十善戒を読み上げいただくことこそ、自己の中にある確かな自覚、それこそ、本来の面目、仏心仏性がもとより備わっている「戒体」であると気づく尊い行いなのであります。
それを忘れず、茶道の修行を励んでいきましょう。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
沙門 宗芯清竜