この頃は、肌寒い日々が続いており、炉の温かな雰囲気が格別に感じる今日でございますね。
先日は、数年ぶりの開催の松栄堂さん主催の「お香とお茶の会」に微力ながら久しぶりに携わらせていただき、とても有難い気持ちになりました。
京都では、ご挨拶させていただいておりましたが、小さい頃から色々な教えを授けてくださった松栄堂社長の畑さんともお茶会でお会いできて、本当に幸せな日でございました。
さて、徳を積むという言葉がありますが、大きくわけて二つの行動があるとされています。
一つ目は、人が見ているところで行う善行をしめす顕徳、人に見られず、知られないところで行う善行を陰徳といいます。
名僧として名高い山本玄峰老師の愛用された句に「性根玉を磨け、陰徳を積め」があります。
性根とは、根本的な心の持ち方を示す言葉でもあり、私たちの心の働きをあらわすものでもあります。
その性根が悪い人を性根が腐っているといいますが、腐っては臭いばかりです。
性根玉を磨けば、心の根は腐らず、よく育ち、人知れないところで人をおもう行動をしているものは、まさに徳という光明を持っている人といえるのです。
良寛さんと今日でも愛される名僧の座右の銘に「一生香をなせ」というものがあります。
まさに、性根という心を磨き続ける姿勢から醸し出される香りというものは、心の根から放たれる香は、人々を喜ばせる馥郁なものがあるものなのです。
茶道では、このような陰徳を大切にします。
水屋は、まさにその陰徳が顕著にあらわれる場所であります。
私は、水屋を祈りの場所とも思っています。
茶事に来られる方を想い、お茶を飲みに来ていただける方を想い、細部まで気を使いながら、準備をします。
来られる方々が一服のお茶で心安らかに喜んでいただけるように、露地や茶室の掃除、お道具の吟味、水屋の準備などをしていきます。
その瞬間は、まさに人々の幸せを祈る行為とまったく同じであります。
最高の点前で最高の一服を点てることは、とても難しいものですが、それに近づけるように日頃からの精進は欠かすことのできないものなのです。
お茶とは「口と心で味わい美味く、後味がよいお茶をふるまうこと」が亭主にとっての理想だとお弟子に梅干しのように口酸っぱくお伝えしておりますが、これがなかなか難しいのです。
それでも、お茶は、最高の一服を点てること、いただくことに尽きるのです。
名が高い名物道具を揃え、高価な食材、良質な抹茶をもって、お茶を点てたところで、亭主の性根が腐っていては、その一時は最悪で不味い一服にしかならないのです。
だからこそ、生涯をもって、一生を通じ、心を磨き、耕し続ける姿勢というものは、茶人の覚悟あるものであれば、保たなければならないと思うのです。
人を傷つけ、苦しめ、怯えさせるお茶は、お茶ではないと力強くお伝えいたします。
さて、先日、お会いした博識な方に「和尚さんは、いつもお茶とお香のよい香りがして、お顔を見ていると自然と合掌したくなります。いつも戒を保ち、お茶をなさっているから醸し出される雰囲気なのですか?」と聞かれましたが、私は和尚と呼ばれるほど、そんな大層な人間でもなければ、日々厳しい修行をされている僧侶の方々や茶人の方々に比べることもできないほどの大馬鹿な愚か者なのであります。
慚愧と懺悔の毎日であり、本当に恥ずかしい者なのであります。
一生涯を肉食妻帯しないと誓い、お酒も飲まず、一心一身に茶道と仏道に身を捧げることしかできない愚かな者なのであります。
必死に戒を習慣化しようと、歩むだけの者なのです。
そんな私をみてある人はこう言いました。「つまらない人生ですね」と。
しかし、この人から見ればつまらないと思われる人生こそ私の最勝、最高の人生であるのです。
有難く、歓喜に溢れた人生なのです。
そんな愚かな私にも願いがあります。それは、数百年先も残る、人々にとっての心休まる場所をお茶のあるところをつくることです。
差別なく区別なく、お腹がすいた人がいれば、温かなご飯を用意し、喉が渇いた人がいるならば、温かなお茶を飲んでいただけるような、そんな場所をつくりたいと思っています。
人の幸せそうなお顔を見るのも、喜んでいる姿も、見るのが大好きな私なのですが、死んだあとの責任も持たなければならないと思うようになったのです。
好き勝手に生きている私なので、いつ死んでもよいと思えるのですが、やはり、それでは、いけないと思うようになったきっかけを、あるお弟子さんがくれました。
そのお弟子さんは「師匠が突然死んだら困ります。師匠に人生をゆだね、師匠に人生をかけた私の人生はどうなりますか。師匠を心のよりどころにしている人はどうするのですか。これからも色々な大切なことを教えてください」と。
死しても地獄に赴き、苦しんでいる者たちに寄り添い、苦しむ者たち、鬼たちが一切いなくなるまで地獄に留まろうと覚悟している私ですが、この言葉から、大切なことを見失っていたのだと気づかされたのです。
それは、この世での生への責任であり、死しての責任です。
私は、この人生を生きていて、ある日突然、家を失い、食べられなくなっても、それは私に向けられた因果応報であるから、そのまま野垂れ死にしてもよいという覚悟を持っていたのですが、やはりこの世に生まれた以上、この世に責任は果たさなければなりません。
はい、死んでおしまい!では、私たちの人生は、やはりいけないのです。
この世に生きる人々にこの世に残される者たちへの責任を果たしてこそ、本当の人としての一生を終えたといえるのではないでしょうか。
どんなにこの世で人のためにと志して、行動していたとしても、それで私の人生は、終了では、ないのです。
残された者たちへの責任を果たしてこそ、それは完遂されるのです。
さて、私のお弟子の一人にホルモンの関係で男性性、女性性に日により傾いてしまうかたがおります。
その方の茶道へ向けた志はまさに深く、私が無理しなくてもよいと言っているのに、肉食をせず、お酒も飲まず、剃髪を頑張ってしています。本当に頭が下がるお弟子さんであります。
子をつくるという社会的責任を誓いから果たせない私ですが、このような志深いお弟子さんが、私のあとに続き、私が作り出そうとしている人々の心休まる場所を引き継いでいってくれたら、と強く願うのであります。
お弟子からお弟子へ・・と。これからも・・。
今回は、私事のお話も多く、ごめんなさい。
最後までお読みいただきありがとうございました。
性根の玉よ
磨けや磨け
磨いただけの果報あり
陽も陰も徳も気にせずただ行じ
宝珠を生み出し
さぁ磨け
沙門 宗芯清竜