一生がけいこ

In 私ノ茶乃湯考 by user

炉から協奏曲を奏でるようにカチカチ、コチコチと語りかけてくる炭の温かさに有難味を感じ、茶釜からたぎる音とともに放たれる大胆な湯気に美しさをより感じられる季節になりました。

今年もよいご縁にたくさん恵まれ、とても有難い毎日を過ごすことができました。

さて、日頃から祖母が口癖のように言っている言葉に「一生がおけいこ」があります。

茶道は「これでよい」「これで完璧」「これで卒業」といったものはなく、出来ると思っても繰り返し、繰り返しのお稽古が何よりも大切です。

禅でいえば、坐禅が人をつくるといわれますが、茶道では、薄茶の平点前が人をつくるのだとされています。

坐禅にしろ、念仏にしろ、その道の本当の意を知り、大道の活路に通ずるは、七万篇の繰り返しと言われていますが、御茶を七万服点てるという志と気概も茶道の中では、大切だと思うのです。

これは、一服、二服と数ばかり気にしていたずらに点てていくのではなく、一服に命をかけるほどの意識をもって、点てる無量にも感じられる七万服をいいます。

茶人の要はいうまでもなく、修行の集大成である茶事を成すことであり、茶事こそ人をつくる修養の最上の場でもあると私は思うのです。

その茶事において美味い濃茶、薄茶をお出しできるように、やはり日頃から茶筅を持ち、励まなければなりません。

お茶を自己流で楽しまれている数寄者の方であれば、修行ということを強く意識しなくてもよいかもしれませんが、茶道の専門家とも見なされる私たち茶人は、一生修行であると心しなければなりません。

弘法大師空海さまは「四大のやまいは薬針の治する所、一心の患いは深法よく癒す」という言葉を残しており「身体の病気などは、薬や針治療が治し、心の痛手や苦しみは、仏の教えが癒す」という意味があります。

仏菩薩の清浄無垢な世界を最上とする茶道も、一服のお茶で少しでも心の痛手や悩み、苦しみが取り除かれることを理想とするのです。

そのような一服を点てるために、茶人たちは、日頃から心を磨き、耕すことを大切にする必要があり、何よりも菩薩心を養う修行が不可欠です。

菩薩道を志す者の実践である六波羅蜜行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を意識した、修行が大切であり、この行こそ菩薩心を養うものになります。

そのうえで、我こそはと思う気持ちを戒め、我こそと高ぶる心を制御しなければ、なりません。

無心で点てる中から生じる、仏心こそ、最上の一服であり、茶道は菩薩の道なのであります。

無心の三昧境に入るための心構えとして「憤信疑」の三大条件というものがあり、茶道の最上の理想郷を仏菩薩の清浄無垢な世界とし、茶の道の要を茶禅一味とする茶道の修行者にもこの「憤信疑」は当てはめて考えることができます。

茶道の憤信疑

1、憤とは「大憤志」ということであり、文字の通り、志を大いに奮い起こし、修行に一心に励むことをいいます。お釈迦様も「千人の敵に勝つことよりも一人の自己に克つものが誠の勝者である」といわれたように、真実の道に、茶道の最上の理想に向かって、これでもかと、不断の努力を重ねたいものです。

2、信とは「大信根」のことをいい、まさに修行の土台ともなるところであります。信とは「決定して疑いのない心」と仏教辞典でも書かれているように、道に一心に励んでいれば、必ず成就するのだと信じなさいということを歴代の祖師方は説かれました。仏の教えにはじまり、侘茶の流れをつくった珠光、紹鴎、そして、侘茶を大成し、茶聖とも称せられた利休居士、その後の茶道の歴史を紡いだ師匠方の教えに全力で従い、我執、我欲を捨て、一心に道を突き進む、強い信念と志をもって、歩んでいきたいものです。

3、疑とは「大疑団」のことをいい、本来の面目とはという壮大な深い疑問から、これはどういう意味だろう・・どうしてこうなるのだろう・・という自己の成長を目指した問いかけをいいます。茶道でも禅の公案に似た、茶問答というものがあります。掛物一つとってもこれは、書かれた老師からの問いかけであると同時に、茶道の師匠からの問いかけでもあるのです。何一つ考えず、疑いもせず禅の辞典を頭に叩き込んで、口先だけの問答にならないようにしなければなりません。辞典の発表会ではなく、心に通い合った問答を大切にするために、日頃から道に深い考えをめぐらし、実践に努めましょう。この疑には、いうまでもなく、大信根というものが前提になければなりません。道を信じ、茶道に身も心も捧げながら、己事究明の深い問いかけの固まりを持ちたいものです。

この「憤信疑」は長い年月をようするものでもなく、一念発起ですぐさまに三昧境を会得できるとされています。

茶道の修行もされた、ある禅の高僧は「勇猛の心をもって、茶道の修行に励むならば、三昧境に入ることは「一超直入」ある時一瞬にして悟ることも出来るのである」と言いました。

さて、私が好きなお坊さんに清僧の良寛さんと言われた方がおり、残した言葉にこのようなものがあります。

何故に 家を出でしと 折りふしは

心に愧ぢよ 墨染の衣

これは、なんで出家したのか、折に触れては深く考え、この墨染の衣(法衣や十徳など)に相応しくない、自らの心を恥じることの大切さを説いたものです。

この言葉を大切にして歩んでおりますが、私自身、毎日が尽きることのない慚愧と懺悔の毎日なのです。

とくに善いと思うものには、さらに深く恥じ入るものがあり「本当に善いといえることなのか」「人のためになったのか・・」といった、反省が絶えません。

本当に愚かな自分なのであります。

私がお弟子さんによく伝える茶道の理想「口と心で味わい美味く、後味がよく感じるお茶」ですが、私自身、いまだ至らないことの方が多く、一生をかけての修行の課題だと深く戒める毎日でございます。

さて、華厳経入法界品の主人公に善財童子という可愛らしい少年が出てきますが、彼は、真実の道を求めて、悟りを求めて、53人の善知識を尋ねます。

菩薩が四人、男性の出家者が五人、女性出家者が一人、女性信者が四人、バラモンが二人、出家の外道(仏教以外の修行者)が一人、仙人が一人、神が十一人、国王が二人、長者が十人、医者が一人、船大工が一人、夫人が二人、女人が一人、少年が四人、少女が三人が物語に出てきます。

この色々な方に道を求めて、真実の教えを乞うという旅を善財童子はしているのです。

菩薩や出家者に道を尋ねるということは、理解しやすいと思うのですが、53人の中には、権力者である国王や富をもつ長者、そういう世俗の中で活躍される方々も見られます。

年長者のみならず、少年少女も道を尋ねる相手に入っています。

その中でも驚くことは、仏教では、外道といわれる、仏道とは、ちがう道に生きる修行者も見られることです。

仏教でいう善知識とは、教えを授けてくれる「先生」という意味で用いられ、必ずしも出家者のみに限定しているわけではなく、仏教とは、関わりのない人も入っていると解されています。

教えを受けるという意味においては、すべての方が私にとっての先生であり、そこに、年齢や性別、貴賤などは、本来、ないはずなのです。

どんな人であろうと、ひたすらに真実を求めて、善財童子は、教えを乞い、頭を垂れており、その姿は、まさに私たち茶人が大切にしなければいけない、姿勢を教えてくれるのです。

私の祖母は、茶道の修行を若いころから一心に積み重ねてこられ、多くのことを知っている私の尊敬する師匠でもあります。

そんな祖母は「一生おけいこ」と口癖のように言い、今も多くのことを学ぼうと励まれ、年齢や立場関係なく、教えを乞える姿に、私たち若い弟子は、深い尊敬を抱いています。

まさに「実るほど頭が下がる稲穂かな」という言葉がぴったりの祖母だと思います。

身内を褒めるのは、なかなかお恥ずかしいですが・・

祖母の姿勢から、たくさんの学びをいただきます。

さて、この善財童子の逸話で思い出される人物に表千家の七代であられた如心斎宗匠がおり、一つ宗匠の逸話をご紹介いたします。

如心斎はあるとき、ひとりで台子の点前のけいこをしていると、茶杓を持つ指がこって、自由に動かないことに気付きました。

そこで、如心斎はそれでは、いけないと思い、仕えている紀州候にしばしの休暇を願い出て、高弟の川上不白を供に連れ、大徳寺に入り、三年ほどの修行をし直しされました。

如心斎は大徳寺で参禅修行するかたわらで、さらに芸の奥義を求めて、起倒流という柔の先生のもとに弟子入りして、教えを学び、名人と噂があれば、皿鉢回しの芸人だろうと尋ねていき、芸の底にあるものは何かをつかもうと励まれました。

このようなお話から、多くのことを学ばされます。

如心斎宗匠が門を閉じ、大徳寺に入られた理由を即中斎宗匠は、このようにおっしゃっています。

茶道にはいったばかりの人は、点前にばかり気を取られて、そばにいる人がいる、いないとかを考える余裕がない。そのうちに、そばに人がいることが気になり、点前をするときの邪魔になり、気が散ってしまう。それから、さらに修行を積んである段階に達すると、今度は多少天狗の心も出てくるから、そばに人がいるとよくでき、人がいないと、なにかもの足りない気持ちになり、よくできない。

最後にその段階を乗り越えると、もう人がいようがいまいが、そんなことは問題になくなり、無心の境地となる。点前の境地の段階がこのようにあるとすれば、如心斎は、そばに人がいないけいこに指がこったのは、未熟のせいだと考えたのであろう

さて「白珪尚可磨」という言葉があります。

「白珪」とは、それは見事で美しい、完全無欠の宝玉をいいます。

その完全無欠で輝き溢れる玉を、なおも磨きなさいという意味がある禅語であります。

磨きようのないものでも、さらに磨く、これでよいとは一切思わず、不断の努力を求める厳しい言葉でありますが、私たち茶人の理想とするところであります。

修行とは、茶室の中ですることだけではなく、日常の隅々まですべてが修行であり、仏道そのものであります。

山にこもり、寺にこもり、茶室にこもりという特定の行いのみを修行とは言わないのであります。

朝起きて顔を洗うのも、ご飯をいただくときも、お掃除をするのも、お仕事もすべてが、仏道修行の場であり、その実践の場所なのであります。

繰り返される毎日が修行の場であり、繰り返し、繰り返しの積みかさねが明日の私を救うのです。

茶道の稽古場も日常の立ち居振る舞いが如実にでる場所だからこそ、日常の中での立ち居振る舞いに気をつけ、日々の修行を大切にしたいものです。

修行を大切にする心を忘れずに、日々を大切に、すべてに感謝して、過ごしたいものです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

私に問う

今日を怠けていないか

今日を穏やかにすごしたか

今日は腹をたてていないか

今日は偉そうに振舞わなかったか

今日も笑ったか

今日も生きているか

人のために何かをしたか

沙門 宗芯清竜