むなしく年を重ねないために

In 私ノ茶乃湯考 by user

先月は、当庵においても多くの行事に恵まれ、たいへんありがたいひと月でございました。

祖母の宗弘は、当庵の行事だけでなく、お茶事へのお誘いや各所からのご招待も重なり、休む間もない日々を過ごしておりました。

それでも、祖母は少しも苛立ちを見せることなく、目の前のことを一つ一つ、淡々と務めておりました。

その姿を見ていて、人の力というものは、忙しさの中でこそ、その真価を試され、また率直にその人の心のありようとして現れるのではないかと、思うのであります。

忙しいからといって人に当たる、思いどおりにならないからといって腹を立てる、疲れているからといって周囲への心配りを忘れるなど、私たちは、日々そのようなことを繰り返してはいないでしょうか。

祖母の姿を見ていると、まだまだ自分たちには学ばなければならないことがあると感じます。

さて「最近の子どもは挨拶ができない」「敬語もきちんと使えない」。

そのような声を耳にすることがあります。

確かに、そのような子どももいるかもしれません。

しかし、その前に私たち大人はどうでありましょうか。

子どもに挨拶を求めながら、自分はきちんと人に挨拶をしているでしょうか。

子どもに礼儀を教えながら、自分は人に対して礼を尽くしているでしょうか。

子どもたちは、大人の言葉を聞いて育つだけではありません。

大人の姿を見て育っていきます。

これは、日々子どもたちのお稽古に接していると、身をもって感じることであります。

人を育てるということは、言葉で教えることばかりではありません。

まず自分自身が、その教えを身につけていなければならないのでしょう。

私たちは、ともすると人の欠点にばかりによく気がつきます。

しかし、自分の欠点にはなかなか気づかないもの、気づきたくないものなのです。

人に正しさを説く前に、まず自分を省みること、そのことを忘れてはならないと思うのであります。

『ダンマパダ』というお釈迦様の教えを集めた仏典に、このようなお言葉があります。

頭髪が白くなることで
長老になるのではない
ただ年をとっただけの人は
「むなしい老人」と呼ばれる

さらに、「真の長老」とはどのような人であるかについて、お釈迦様は説かれています。

誠実で

正しい道を歩み

他を害することなく

自制し

心を訓練し

汚れを離れ

自己を確立した人こそが

長老と呼ばれる

煩悩のままに、いたずらに年を重ねることは、人生を浪費していることだということを戒めるためにお釈迦様はお説きくださいました。

なんとも厳しいお言葉でありますが、核心をついているといえるでしょう。

年齢をただ数えていくことはそう難しいものではありません。

年齢を重ねることと、人間として深まることとは、必ずしも同じ関係にはないのです。

長く生きてきたからといって、智慧が身につき、多くの経験を積んだからといって、慈悲に目覚めるわけでもありません。

むしろ、長く生きてきた積みかさねが足枷のようになり、自分を中心におき、自分の考えに固執し、人の言葉に耳を貸さなくなってしまうこともあるでしょう。

私たちは、いくつになっても学ぶ心や人としての向上心を失ってはならないのであります。

我を中心に置き、自分の物差しだけで人を測り、自分の都合ばかりを優先して生きる、そこには、どれほど年月を重ねても、真の人間的な成長はありません。

人生という限られた時間を、そのように過ごしてしまうのは、なんとも惜しいことではないでしょうか。

釈宗演老師は、このようなお言葉を残しています。

私達がこの世に生を享けたのは私達の本来の智慧に目覚めるためであり

真理の導くところに従って人間性を陶冶するためです

私たちは何のために、この世に生まれてきたのでしょうか。

ただ食べ、ただ働き、ただ年を重ね、やがて人生を終えるためだけに生まれてきたのでしょうか。

いっときの欲望を満たし、それをまた欲し、時に失うことに一喜一憂するために今を生きているのでしょうか。

そうではなく、自分の中に本来備わっている仏心に目覚め、そこから心を磨き、この世に生まれたお役目と大きな喜びを知る、そのために、今ここに生かされているのではないでしょうか。

茶道もまた、そのことを知り、磨く道場であります。

お辞儀をする、挨拶をする、道具を丁寧に扱う、相手のことを思い、次の動きを考える、一つ一つは、何も特別なことではありません。

しかし、その何気ない所作の中に、自分を中心におきたがる心を離れ、相手を思いやり、自分を磨いていく修行があるのです。

お点前が上手になることも大切です。

しかし、それ以上に、お茶を学び、お稽古を重ねることで、少しでも心が広くなり、人に優しくなり、謙虚になれるならば、それこそ茶道を稽古する大きな意味になるのではないでしょうか。

お茶を始めるのに、早いも遅いもありません。

幼い頃からお稽古を始められることもありがたいことです。

しかし、何歳になってからでも、自分を見つめ直し、人として成長したいと願ったその時が、人生の一大事なのであります。

先日のチャリティー茶会では、藤井誡堂老師が書かれた観音経の偈文と、観世音菩薩のお姿を描いた自画賛をかけました。

そこには、次のようにあります。

無垢清浄光

慧日破諸闇

能伏災風火

普明照世間

観世音菩薩の慈悲と智慧を讃えたお言葉であります。

私たちは、観音さまというと、遠いどこかにおられる仏さまと考えます。

もちろん、そのお姿を思い、仰ぎ、手を合わせることは大切なことであります。

しかし、同時に忘れてはならないのは、私たち自身の心にも、清らかな仏心が本来備わっているということであります。

自分のことばかりを考え、腹を立て、他人を責めているとき、その仏心は煩悩という暗闇のまれてしまい、自分のみならず、相手さえも傷つけます。

けれども、相手を思いやり、苦しんでいる人に手を差し伸べ、見返りを求めずに人のために尽くすとき、そこには観音さまの慈悲が現れているのではないでしょうか。

この身も口も意識どれも人を癒すことも傷つけることができます。

私たちがそれをどのように使うかでその働きは変わるのであります。

私は、お弟子さんにこの掛物をかけている場合、このようにまずお話します。

「あなたは観音菩薩さまです」

慈雲尊者の歌を紹介いたします。

阿字の子が阿字の都をたちいでて
またたちかえる阿字の故郷

私たちは、この世に尊い生を受け、それぞれの人生を歩んでいます。

楽しいこともあれば、苦しいこともある、いや幸せを求めているはずなのに、楽しいことより苦しいことの方がドアを叩いてくることのほうが多いでしょう。

生きている中で老い感じたり、病になったり、人と出会い、別れ、喜び、悲しみ、さまざまな経験を重ねていくも、いつかは死にいくものです。

生まれてきたものには、必ず死が訪れる、逃れようとしても、誰一人として逃れることはできない真実なのであります。

だからこそ、今をどう生きるかが大切だと思うのです。

いつか仏さまの故郷へ帰るその日まで、ただ年を重ねるのではなく、少しでも人として深めていきたい、少しでも人に優しくありたい、少しでも自分の我を離れ、他の人の幸せを願えるようになりたい、そのように願いながら、一日一日を大切に生きていきたいものであります。

むなしく年を重ねるのではなく、今日という一日を、新しく生まれ変わったつもりで生きてみる、昨日の死んだ自分よりも明るい道を行く、その思いの積み重ねこそが、人生を真に豊かなものにしていくのではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

仏の子は死んでも死にきれない

悩み苦しみ迷う人々がこの世からいなくなる日まで

生き続けたいと願うから

仏の子はまたたちかえる人のふるさと

佐々木 清竜(黙雷)