この頃はすっかり冷え込んでまいりましたが、皆様温かくお過ごしでしょうか。
体調を崩されませんようにと、御祈念しております。
さて、お茶は即今只今でありますから、私自身、一年を振り返ることはしませんが、聞かれることが多いので少しだけお話させていただきます。
今年も多くの人のおかげさまに生かされておりました。
その中でも一番大きな出来事は、御師僧様に出会った事、剃髪をしたことでしょうか。
お茶は菩薩道というおもいのもと、心を磨き続けること、慈悲と利他の心、御仏の道を茶道とともに大切に歩んでまいりましたが、あらためて利休さまが茶道の世界に見出された、仏菩薩の清浄無垢な世界に身を置き続ける覚悟を剃髪することであらたにいたしました。
ご高名で御徳深い御師僧様にも出会うことができ、きたる年には正式に僧侶としての道も歩ませていただくことになり、本当にありがたいことです。
来年も変わらず御仏の心に茶道が包む形での生き方をしていき、非俗の半僧茶人、菩薩道をしっかり歩んでいきます。
また、ご縁に恵まれ華厳宗東大寺の橋村公英管長猊下より十善戒牒をお授けいただいたことも大きい出来事です。
十善戒とは、仏教における十の悪業を否定形にして、十の善業を戒律としたものとされており、菩薩の身口意の実践行ともいわれています。
菩薩戒とも親しまれている十善戒は、元々は出家した比丘の戒とも言われていました。
こちらは、最も基本で最も仏教の核に迫る大切な戒律とされております。
十善戒
不殺生 生きとし生けるものを殺さない。
不偸盗 盗みをしない。
不邪淫 よこしまな淫欲にふけらない。
不妄語 嘘や偽りを言わない。
不両舌 両方の人に違った事を言い両者を離間し、争わせない。
不悪口 人を悪く言わない。
不綺語 真実に背いて巧みに飾り立てた言葉をろうしない。
不貪欲 自己の欲するものに執着し、欲望の限りを尽くさない。
不瞋恚 いかり憎まない。
不邪見 因果の道理を無視する妄見にとらわれない。
橋村公英管長猊下は「私たちの心の中には『災いの扉』があり、この十善戒はその扉を戸締りするためのカギになります」とおっしゃっておりました。
また「十善戒を心にとどめて世の中の一隅を照らせるような人物になってください」とのお言葉もかけていただきました。
橋村公英管長猊下の熱いお心にそえるようにこれからも精進していきます。
京都において大雨が降り困っているところ、コンビニの店員おばあちゃんが「何かお困りですか?」と優しい微笑みとともにお声をかけてくださり、ご自分の傘を差し出していただいたことも今でも温かい出来事として思い起こされます。
自分よりもお人に・・ということはなかなか出来るものではありません。
世の中の一隅を照らし続ける方とは、このようなお方をいうのではないでしょうか。
今年一年を振り返ると数えきれないほどのおかげさま、ご縁に助けられていたことをあらたに痛感いたします。
深い感謝の気持ちが沸き起こり、ありがたい一年でありました。
さて、無事とは『臨済録』に出てくる言葉であり「無事是貴人、ただ造作することなかれ、ただこれ平常なり」という原文から出てきた言葉です。
臨済禅師いわく「求心やむ処、即ち無事」外に向かって求める心がピタッと無くなった時、無事の境涯に住まうという意味があります。
私たち人は、どうしてもはからいの心をなかなか捨てきれません。
「人に認められたい」「人にこう思ってほしい」「こうなってほしい」などといった思いを抱えている方は多いと思います。
そして、外に求め、はからいを尽くした先に、答えや本当の自分がいると思い込んでしまいがちです。
しかし、外に求めて、はからいの限りを尽くしていると苦しく、いつまでも手に入らない現実に絶望するのではないでしょうか。
時にそれは自分を追い込むものになり、怒りになり、悲しみになります。
お弟子さんがこのような相談をしてきたことがあります。
「駅の改札口で困っているお爺さんがいたので、声をかけました。行先の切符の買い方がわからないと不機嫌な表情をうかべ言うので、切符の買い方を教えたところ、言葉ではわからないから「お前がかわりに買え」と言ってきました。そこで、かわりに機械を操作しているところ「早くしろ」「遅い」などと後ろから怒ってきます。きっと急いでいるから怒っているのだろうと思っていました。しかし、切符が出てくると、私を押しのけ切符と小銭をとり、御礼を言わず、舌打ちをして立ち去りました。この時、とてつもない怒りが出たのです。私の心がいけないのでしょうか」といったお話でありました。
私はお弟子さんに「善いことをしたら御礼を言われることを当たり前ととらえ、期待しているから、怒りの心が出たのではないでしょうか。きっと御礼という報酬を受け取りたいという自分がいたのではないかと思います。善とは難しいもので、相手へのはからいの心が全くないときに本当の善とは成立するのではないでしょうか。ただ純粋に相手のために・・です。きっとはからいの心をたてる自分がいなかったら怒りの心は出ず、むしろこのような機会にめぐり合えて「ありがとうございます」と思えるのではないでしょうか。無事とは、何も無いという意味ではなく、決して揺れ動かない大安心とどまるところなのですよ」と言いました。
私自身、このように言えるほど出来てはいませんが、善い事をしたと思う時こそ、気を付けるようにしています。
本当に相手のためになったのか・・
自己満足ではないのか・・
ほんの少しでもはからいの心はなかったか・・
といった深い反省と恥じ入る気持ちが茶釜たぎるごとく沸き起こります。
御仏のもつ真の善とは程遠い行いばかりです。
それでも、多くのおかげさまや御恩に生かされている以上、恒作衆生利、常に人々の幸せのために、利他行に励んでいきたいです。
今年も本当に感謝あふれる年でありました。
命生かされていることに深く感謝して、来る年も迎えていきたいです。
これからも三友庵が人々の憩いの場であり続けることを御祈念して・・
最後までお読みいただきありがとうございます。
佐々木 宗芯(心徹)