茶事とは

In 私ノ茶乃湯考 by user

先月は、開炉の茶事を無事に迎え、とてもありがたい日々を過ごすことができました。

今月、初茶事をする章吾君は、お稽古を始めてから四年目が経ちましたが、とても熱心で毎月のお稽古も個人稽古含めて8回~10回ほど来ます。

熱心にお稽古に通う中、茶道具も地道に集められていたので、28日のお茶事では、きっと素敵なお品に出会えると楽しみにしております。

さて、お茶事とは、普段のお稽古の集大成であり、究極的な茶の湯の実践の形といえます。

古においては、茶事は茶の湯全般のことを示していたとされていますが、現代では懐石料理を伴った、正式なおもてなしを茶事と言い表します。

いうまでもなく、お茶事こそがそもそもの茶の湯のあるべき姿であり、茶の湯文化が花開いた頃は、貴重な抹茶を最高の状態で楽しむことを目的としていました。

当然のことながら、その最高の状態でお茶をいただくためには、普段から点前の修練も怠ることはあってはなりません。

また、お掛物をはじめ、点前のお道具にも最大限の気をくばりながら、隅から隅まで心をくばります。

普段からの掃除も大切ではありますが、お茶事の日が決まれば露地、茶室の隅々までをいつもより清め、手水鉢も何度も念入りに洗い、清水で清めます。

私のおすすめは、塗香を溶かした清浄水で手水鉢を清め、最後に清水で洗いながすことです。

このようなところから心をくばり、当日、親しい人をお招きして、美しい茶道具を用い、懐石をふるまい、濃茶、薄茶を供し、その間は主客一味で真心からの交わりを楽しみます。

現代では、茶道のお茶といえば薄茶を思い起こす方が多いようですが、本来の茶事の目的と照らし合わせてみれば、濃茶がメインになります。

その心のこもった濃茶一服を喫し、主客の心の交わりを尊ぶことが茶事の真髄です。

このような主客の心の交流を貴賤などの俗事交えて考えてはならず、利休の高弟である山上宗二が著したとされる『山上宗二記』では、亭主と客の交流の心得をこのように説いています。

亭主の心得として「亭主は心から客を敬わなければならない。貴族や茶の湯上手の客は申すまでもなく、普通の客を招いた場合にも、心から名人のごとくおもいもてなすべきである」

と述べたうえで、客の心得では「朝夕の会合であっても、道具開きのお茶、最もあらたまった口切のお茶は申すに及ばず、平時の茶事であっても、露地へ入って露地を出るまで、一生に一度の茶事とおもい、亭主を敬うべきである」としています。

亭主は貴賤の有無問わず、客を名人貴人のごとく敬い、もてなし、客も一期一期の思いで、亭主の心入れに答えるべきであると『山上宗二記』では説いているといえます。

大名茶人で有名な松平不味公は『茶礎』で「客の粗相は亭主の粗相なり。亭主の粗相は客の粗相と思うべし。味わうべきことなり。客の心になり亭主せよ。亭主の心になり客いたせ」と説き、亭主も客も火炉頭に賓主無しの心持、すなわち亭主と客といった壁を打ち壊し、互いに相手の心をいたわりつつ、亭主は客を心から思いやり、客もまた亭主の心入れを深くおしはかり、互いの真心が通う一座を建立しようと励む、その姿勢こそ、真の美しい主客一味の茶事であるといえます。

また、茶事は自分ひとりで客と応対することから、茶人の精神的修養において、大きな意味を持ち、非常に重要な実践の場であるともいわれます。

禅でいう坐禅が茶道では、薄茶の平点前にあたり、互いに人をつくるということは、歴史的にも証明されていることとは思いますが、茶道をお弟子に教えているとそれらを深く痛感するところではあります。

『臨済録』の中で臨済禅師が門下の居士で地方長官であった王常侍の問いに対して「衆生は看経をしているのでもない。禅を学んでいるのでもない。総に伊をして成仏し作祖し去らしむ」と伝えている一節がございます。

もちろん経を読み学び、坐禅をしているのですが、本当の目的は、経を読むことでも、坐禅に勤しむことでもなく、一人一人の衆生の中から、仏を生み、祖師を作り出していく、という意味が込められていると思われます。

茶道でいうところの茶事や普段のお稽古も習い事や趣味という枠組みで安易にとらえられるものでもなく、人作りの場、すなわち菩薩の生まれるところでなくてはならないと私は思います。

さて、お茶を点てる力量さえ整っていれば、お茶事を催すことは可能ですが、実際には、茶室や一定程度の茶道具などが必要になります。

これらのものが整えれば、お茶事をすることができるようになりますが、万事思うようにならないのが普通のことであります。

そこで大切になってくるのが、昔からいうところの作分すなわち創意工夫であります。

いかにその茶事を上手くまとめあげていくかという一人一人の力量にかかっています。

そのためには、むやみやたらに茶道具を買い集めることなく、一本の筋の通った自分らしいお茶のあり方を普段から探究することが必要です。

誰もが最初から、完全無欠な大茶人の様を持つことはありません。

不断の努力の積み重ねによって、大茶人へとなり、真の意味において自分らしいといえるお茶世界を創造できるものと思います。

茶道は仏菩薩の清浄無垢な世界であり、そこに俗事を持ち込むことを私たち茶人は気を付けなければなりません。

茶の世界は、非俗俗世といった境涯の関所を破る場、すなわち超俗の場であることが大切であり、純粋無垢で真剣な心の交わりのある場所でなくてはなりません。

そのためには、一人一人の茶人が菩薩と自覚していくことが大切なことではないかと私は思っています。

互いに深く思い合い、いたわりあい、和やかでただ美しい心通い合う茶の世界がこれからも続いてほしいと願っています。

三友庵が人々の憩いの場であり続けますように・・

最後まで読んでいただきありがとうございます。

合掌。

佐々木 宗芯(心徹)