寒いこの時期によく見られる釜の湯気とともにいただく、一服はとても美味しいですね。
家族やお弟子さんとともに毎日お茶をいただく生活を長年しておりますが、これほど有難いことはないのだとしみじみと思う今日でございます。
最近、私は何服ほどのお茶を毎日点てているのか考える機会がありました。
平均して薄茶を10服ほど毎日点てており、今年に入って薄茶をすでに三百数十服ほど点てていることがわかりました。
これが続くと年間では三千服以上になり、今までの年数で考えると数万服となるため、とても感慨深いものがございます。
お茶の時間にお付き合いいただく家族やお弟子さん、美味しいお茶を作ってくださる茶舗の皆様に深い感謝の気持ちがあらためてわき起こりました。
この毎日お茶を点てるということは、十年以上欠かさずしており、お茶を点てるという大切にしなければいけない修行を今日まで無事にさせていただける日々に感謝です。
「お客さんに美味しいお茶をお点てしたい・・」という思いのもと始めたことですが「美味しいお茶」への探究と修行に終わりはないのだと深く戒める毎日を過ごしています。
お茶を点てさせていただくご縁に恵まれて本当に有難い日々をいただいております。
ありがとうございます。
一服のお茶を自服するとき、今日一日は何をするか、何をできたかなど色々と考えたりいたしますが、私はこの一服の瞬間に自分の命を投じるほどのおもいをかけて臨んでおります。
お茶はとても繊細なもので保存状態や気温、水とお湯の具合、点てる時の心と身体の状態により味が変わります。
お茶の本来の味を百パーセント生かすことは難しいことでありますが、一服の美味いお茶のために一切の気を抜くことはできません。
汲みたての水で湯を沸かします。
とくに湯加減には気を付けなければなりません。
薄茶の場合、あまり煮えたものはよくありません。
一度沸騰させ、少し静まったのがお薄には適しており、竹の柄杓でくんだものがよいと思います。
お薄のお茶の分量は一杓半、一人につき5分が適量とされていますが、自分の好みやお客様の好み、湯の熱さなどを見て、お茶とお湯の分量を調節することも大切です。
2グラムより気持ち多めにお茶をいれると美味しいお茶を点てられると思います。
湯が熱い場合は小服、ぬるい時はやや多めのお湯で点てるなど工夫することも大切です。
また、茶筅の扱い方によっても味は変わりますが、表千家の場合、茶筅はゆるやかに振り、池が出来るほどの泡でおさえます。
余談でありますが、北海道では豊滝の龍神さまの水がお茶にはおすすめです。
こうして、私は茶道を歩み始めて約25年間のそのうち10年以上は毎日お茶を点てるというお茶のお稽古をさせていただいておりますが、お茶のある生活は私にとって日常でありました。
「茶は常のこと」という言葉が茶道ではありますが、まさにこの言葉がぴったりきます。
このような恵まれた環境でお茶が出来るのもご先祖様、祖母をはじめ、家族、社中の皆さま、関係者さまのおかげでございます。
お茶は常のことであり、点前も茶道具、茶室も美味い一服をいただくための手段でしかありません。
松栄堂の主人である畑さんもお茶は「日常茶飯事 日常の中でとけこみ、輝くもの」であると私に昔教えてくれました。
日常ではないものが日常に自然ととけこみ、そのお茶の心が常のことになれば、もっとこの世界はよいものになるのかもしれません。
地獄は眼前にありという言葉がありますが、私たち茶人は地獄のような茶道の世界をつくらないようにしないといけないのではないでしょうか。
人々の心の渇きが癒えていくお茶のような存在に自分自身がならなければもったいない茶道の修行人生ではないでしょうか。
茶道の世界をよりよいものにする責務を私たち現代の茶人は負っているのではないでしょうか。
そのためには、貪り、怒り、愚痴といった三毒、驕慢に陥ること気を付けなければなりません。
さて「まぁまぁ、難しい議論はさておき、しばらく座ってお茶でも飲みましょう」と呼びかける言葉に且座喫茶があります。
情報の大海原をいかだ一つで漂う現代人がこの社会を生き残るためには、色んな情報を駆使して生きていかなければならない、といった風潮があり、休まることがないようです。
常に頭の中で問題の議論を繰り返して、早急に解決していくことがあたかも素晴らしいことのように思っているようです。
しかし、そのような生き方は心の貧困を招くものであり、人が人として豊かに幸せに生きていくという本来の目標とはかけ離れている行いと言わざるを得ないのではないでしょうか。
そんな時こそ、フッと一息つける瞬間、我を我として「あるべきよう」を取り戻す時間があっても良いのではないでしょうか。
静寂の中に坐して、一服のお茶を無心で喫茶する・・そんな心の余裕あるところから思いつかなかった答えやアイデアが出るのではないかとも思うのです。
喫茶という日常茶飯事のその生活のあり方こそ、実は仏法そのものの表現であり、その行いを通じて自分に宿る仏心の種を花開かせていくものともいえます。
貴賤の区別なくお茶を平等にふるまい、一服のお茶を無心でいただける瞬間が常になれば、茶道の大事は卒業となり、真の意味においての成人を果たしたことになるのではないかと思うのです。
これからも和顔愛語に満ち満ちたお茶の世界を皆様と共有できたら嬉しいです。
「茶の湯とは、口と心で味わい美味く、後味がよく感じるお茶をふるまうこと」が私のおもう茶道の理想であります。
最後まで見ていただきありがとうございます。
佐々木 宗芯(心徹)