この頃「何年で茶人になれますか?」「茶道で生活できるようになりますか?」といったご質問をいただきます。
茶道をお稽古する以上はやはり、達成の目安があると、やりがいが出てくるのだと思いますが、このような質問には困ってしまいます。
まず誰かがその茶人の有無を認めるということではなく、自分が一念発起して茶道修行を熱心に重ねて、その古から伝えられる心を一つ一つ会得され、心身にお茶の息吹が溶け込んでいるのならば、その方はお茶人であろうといえます。
なぜなら、茶人とは職業ではなく、生き方であるからです。
茶道とは、自分に箔をつけ、食べるための手段になりえるものではなく、万里一條鐵のごとく、古から続く茶法茶心という道の名をもつ一本の鉄棒が心に深く刺さり、溶け込み、確固として建立されて始めて歩み始めるものであります。
伝教大師最澄さまが残した言葉に「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」という言葉があります。道を極め、実践しようとする心に後ほど自然と生活の糧や環境が生まれるものであり、決して逆で道心は生まれないということであります。
現代人は合理性や効率性を重視し、結果ばかりを追い求めるあまり、大切なことを失っているのではないでしょうか。
自分の心を安心に導き、四海静謐、真の豊かさを生み出すには自分の心の中に確固たる道心がなくてはなりません。
道心無き人に国に安心はなく、豊かさとはかけ離れたものを抱き続けなければならなくなります。
それでは、ますます荒廃し、衰退していくばかりだと思います。
そのような生き方が好きな方はそのままでも良いのでしょうが、その生き方に疲れ、苦しんでいる人はきっとこれではいけない!と気付いているのだと思います。
茶道は菩薩道であり、御仏の道であります。
茶道のお稽古そのものが仏道の修行と言っても過言ではありません。
普段のお稽古から茶事茶会まで菩薩の心が主客ともにあらわれないところはなく、南方録をして「小座敷の茶の湯は、第一、仏法を以って、修行得道する事なり、家居の結構、食事の珍味を楽とするは俗世の事なり、家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにてたる事なり、是仏の教え、茶の湯の本意なり、水を運び、薪をとり、湯をわかし、茶をたてて、仏に供え、人にもほどこし、我ものむ、花をたて香をたく、みなみな仏祖の行いのあとを学ぶなり」とあるように茶道の理想的空間は仏菩薩の清浄無垢な世界ということができ、御仏によって厳しく鍛えられてきた歴史が茶道にはあります。
茶道の理想は「心に安心をいだき、心の渇きが癒えるお茶をいただく」に尽き、一服のお茶でひとときだけでも、心穏やかに過ごし、悩み、苦しみを忘れられるところにお茶の妙心があります。
また、人と人の心の深き交わりを尊びます。
この理想を実現するためには、自分の心の渇きから先に脱していかなければならず、三毒(貪瞋痴)に振り回されることなく、自分を厳しく律し、御仏という師匠を心に抱き、茶道の修行にひたすら精進していくほか道はありません。
かの千利休は半僧茶人という生き方を生涯貫き、茶道への志深く、悟道を歩まれました。
利休の弟子とされる南坊宗啓は師の利休を「道にこころざしふかく、さまざまな上にて得道ありし事、愚僧(南坊)等が及ぶべきにあらず。まことに尊ふべく、ありがたき道人、茶の道かと思えば則ち、祖師仏の悟道なり」と言ったとされています。
このように茶道は志のもと心を耕すこと、磨くことをとても大切だとしています。
お伝えさせていただいている私もまだまだ未熟者であり、釈尊のお弟子さんであるアヌルッダの逸話の通り、修行の道に終わりはなく、利他への思いにこれでよいという完成はないのだと深く戒める毎日でございます。
心の中の御仏という師を頼りに歩み、利他に精進させていただいていると、とても幸せな気持ちになり、有難い気持ちになります。
しかし、善いとされることをした時こそ深く反省し、恥じ入らなければならないと思うのです。
本当に人のためになったのか、自己満足ではないのか、少しでも御礼を言われることを求める打算的な思いはなかったかなど、反省が絶えることはありません。
お茶事においても同様に全力でお客様をおもい準備しても、至らぬことばかり目に尽きます。
懺悔と慚愧の連続です。
また、清巌宗渭老師のいわれた「飢来飯、喝来茶」の心、お腹が空いたらご飯を食べに来てください。喉が渇いたらお茶を飲みに来てください。とお腹が空いた人や子あれば、喉の渇きがある人や子がいるならば、貴賤問わず、三友庵にお迎えさせていただきたいと思います。
お茶室が人々の憩いの場、社会の受け皿のような役割を果たせたらという願いを私は持っています。
茶道を志もって、仏道とともに歩む茶人は菩薩さまであると私は思っております。
真理そのものは、人がはからずとも不変であり、人が人をいたわり、苦を少しでも取り除いてあげたいという思いは、人の本質であります。
それが顕著に現れるところが茶道というだけであります。
菩薩様とは慈悲と智慧を磨き続け、実践する方をいいます。
弘法大師空海さまの『秘蔵宝鑰』に出てくる言葉にこのようなものがあります。
菩薩の用心は
皆、慈悲を以って本とし
利他を以って先とす
菩薩とは、いつくしみ、いたわり、幸を与えようと励むものであり、相手の苦しみ、悩みを受けとめ、少しでも取り除いてあげたいという心も持ち合わせ、自分の幸せよりも相手の幸せを願い、行動していくものであり、そこに真の自分の幸せがあると知っている者をいいます。
亭主七分の喜びという言葉が茶道ではありますが、まこと菩薩の働きを示しているのではないでしょうか。
茶人とは、職業ではなく生き方であり、茶室だけで茶事茶会だけで茶人を演じていればよいというものではありません。
日常のすみずみまで、表裏もともに茶人であってこそ、然るべきものであります。
最後までお読みいただきありがとうございます。
善い種をまき、茶の福田に実りあることを願って・・
これからも仏道とともに、茶道を歩めることを願い・・
茶を菩薩乗の住処とし
たがやせ たがやせ。茶の福田
みのりある日まで
朽ちるその日まで
佐々木 宗芯