新年を迎えて

In 私ノ茶乃湯考 by user

明けましておめでとうございます。

正月三が日目ですが、新年をどのようにお過ごしでしょうか。

明ける朝に読経をし、朝一番に汲んでおいた水で家族と大福茶を祝い、おかげさまで家族そろって新しい年を明るく迎えることができ、とても有難い日をいただきました。

元旦のお茶は、私の好きな奥西緑芳園さん詰めの特選寿の昔をいただき、家族みなの幸せと長寿を祈りました。

さて今年の抱負を新年にたてられた方もおられるとは思いますが、私は今年のみこれをしよう!というものはありませんので、この身このまま本年も茶道と仏道の修行を必死にさせていただけたら有難いです。

堀内宗心宗匠が『茶事と習事十三箇条』というご著書のなかで「点前における禅」という見出しとともに「茶禅一味とは、禅によって得た境涯、人格、人柄を身につけたうえで茶の湯を行うというところにあると考えられますから、茶の湯を行ううえにはどうしても禅の修得、仏法の本体を身につけておく必要があります」とこのように語られました。

いうまでもなく、禅とは、教外別伝不立文字によるところがありますから、言葉による説明でゆうゆうと語られるわけでもなく、私のような愚かな茶人が口出しできるものでもありませんが、坐禅などの特定の行いのみを禅とは、言い切れないのではないかとも思うのであります。

当然、この方は!という禅僧禅者に参禅し、修行に励まれるのも、古人の足跡をめぐるものであり、然るべきものではあります。

一休さんが茶道の根本には禅道があると喝破されたように、茶道の根っこの部分には、禅の心、仏の心が生きているのです。

どちらが主でどちらが従というわけではなく、どちらも主としての現れなのであります。

堀内宗心宗匠もご著書のなかで「禅というのは、言葉による観念ばかりで会得されるものではないのであります。最も実直に禅の「無」を感得する一つの手がかりは、手ざわりであります。禅の観念は、自分を基にして、対物、対人、対自という形で物を感得し、人を感得し、自分を感得するなかに、はじめて真理のよってきたるところを会得するようになるのであります」とおっしゃっています。

即中斎宗匠も点前の最終地点は、人がいようがいまいが、問題なくなり、無心でできるところと説かれたように、まさにこの無心の境地こそ、禅でいう無の感得なのではないでしょうか。

お弟子さんのお点前を見ているとそれぞれ違います。

急いでいる方はどこか忙しなく、緊張している方は、ぎこちなく、カッコよさを求める人は、どこか仰々しく見えるのであります。

対して茶道に志をもち、自分の理想とするお茶へ心を向けている方のお点前には、その人にしかない雰囲気というものがあり、その人の境涯・境地が、ありのまま、そのまま動作の中に込められ、見る人に伝わっているのだろうと思うのであります。

茶道の理想とするところは、仏菩薩の清浄無垢な世界であり、直心同士の交わりであります。

そのような理想的世界の建立を果たすためには、やはり己を磨き、心を磨き続けるという不断の努力が必要です。

そのうえ、仏法の本体を身につけるための、日々の積み重ねも大切になってくるのです。

茶道は、頭で口先だけでするものではなく、心でするものであり、それには智慧と慈悲の働きが大切になってきます。

しかし、智慧なき慈悲は押し付けであり、慈悲なき智慧は独りよがりでありますから、当然この二つを磨く努力が大切になってきます。

禅の修行の目的をある高僧は「求めて求めきれない無限なるものは、実は自身の心の内にあるということを知って、一切の求める心を捨て去り、八万四千の煩悩の固まりとなっている奴隷の身から解放され、自由の境地を得ることにある」といいました。

『臨済録』に「無事是れ貴人、ただ造作すること莫れ、ただ是平常なり」とあり、無事をしるものは最も尊いのである、はからいの心をもってはならないのである、この身このままであるという意味になります。

ここでいう「無事」とは「求心やむ処、即ち無事」外に求める心が無くなった状態をいうのであり、それこそ大安心の境地の住処なのです。

しかし、この文章では、なかなか難しいとおっしゃる方がおります。

そこで、この「貴人」を仏さまや菩薩ととらえると「無事こそ仏である」という意味としても解することができ、少しわかりやすいようになったのではないでしょうか。

私たちの苦しみのおおもとは、すべて自分の幸せのためだけを願い行動するところから生まれるものであり、その幸せを外に求める心からわき起こるものなのです。

「あの人にこう思ってほしい・・」「あれがほしい・・」「このようになりたい・・」すべてが思い通りに叶えばよいかもしれませんが、なかなか思い通りにいかないのが、私たちの人生であります。

人は多くのおかげさまのなかで生かされているのであり、多くの人々によって生かされているのであり、その有難味を知らずして、自分のためだけに生きるのは、好んで砂漠にポツンと一人で立っているようなものなのです。

外にはからいの刃をむけて生きるということは、自分を人を知らず知らずのうちに傷つけるものです。

人が生きている実感とは、目の前の人のために生き、その人から「ありがとう」というかけがえのない笑顔を向けられた時に起こるものなのです。

それでも、満足に人を幸せにすることも、ましてや救うことも、導くこともできない自分であったとしても、人のために生きてこそ、生きがいというものは生まれるのです。

慚愧と懺悔の繰り返しの人生を歩んでこそ、人は輝いてくるのです。

「古人、刻苦して光明必ず盛大なり」という言葉がありますが、人は苦しむほど、悩むほど、悲しむほど心がしだいに強くなり、必ず道は開けてくるのです。

自分の本当の幸せを見つけるために、自分の本当の安心をつかむために、人を笑顔にするために、人を幸せにするために、人の苦しみや悲しみが少しでも取り除かれるように、大いに苦しみ、悩まなければ、己の真の道なんて生まれないのです。

道元禅師は「道は貧道より尊きはなし」という言葉を残していますが、茶道の修行者は、貧しい中で必死に茶の湯の修行に邁進することが大切であり、遊びにいかず、食べるものも質素、一途に道のみを求める、そういう環境に身をおいてこそ、本当の修行が出来るのではないでしょうか。

お弟子さんとともに、日々の修行を大切にして、本年も過ごしたいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

至るところに光あり

至るところに笑顔あり

至るところに命は宿る

いかしいかされ

今日がある

今日があるのだ

沙門 宗芯清竜