美しい心と姿勢でお茶をいただく

In 私ノ茶乃湯考 by user

札幌はだんだんと気温も高くなり、ほんの少し春風を感じられるようになりました。

皆様はご体調など崩さずお過ごしでしょうか。

さて、お茶をいただく時、かみしめながら、美しい姿勢で味わっているでしょうか。

乱れた心で、がぶがぶと無作法に飲んではいませんか。

お茶が冷めるように茶碗をコロコロと回しながら飲んではいませんか。

竹野紹鷗の門弟であった真松斎春渓が記した『分類草人木』という茶書にこのような伝えが書かれています。

茶の飲みよう、いかにも静かに一口一口、かむように飲むべし。

いかにも小口に飲むべし。

大口で飲めば、風味を覚えぬものなり。

飲みはたしには、大口に飲むなり。

おりの残らぬようにとなり。

紹鴎は茶だにぬるくならずば、一日にも飲みたきと、いわれしなり。

ご亭主が真心を込めて点ててくれた一碗のお茶に深く感謝をしながら静かにかみしめるように一口一口お茶をいただくことは、大切な心得だと私は思います。

草人木にも書かれているように大口でがぶがぶと飲んでしまっては、お茶の風味もわからないうえ、ご亭主のお心をしっかりと汲み取ることができないのではないでしょうか。

一陣の清風を吸うが如く、スっ!と最後は一滴も残さずお茶を吸いきり、ご亭主のおもいに溢れた心も同時に飲み切るほどの優しい気持ちを持ちたいものです。

飲み終わった茶碗も内側を汚さず、綺麗に返す心遣いも忘れないようにしたいものです。

このように飲むとお茶も格別に感じられ、亭主も客もともに気持ちのよいものではないでしょうか。

ご亭主の心尽くしに溢れた一碗を口から離すのは名残惜しくも感じられ、紹鷗をしてお茶が冷めなければ一日かけて飲みたいものだといわれたことがわかるのではないでしょうか。

ご亭主の心尽くしに深く感謝し、お茶を飲めることに有難味を感じ、静かにお茶をかみしめながらいただく気持ちを常に大切にしたいものです。

一碗のみどりは、命の色であり、一服のお茶は、仏さまそのものなのです。

『南方録』にも「小座敷の茶の湯は、第一、仏法をもって修行得道する事なり・・」とあるように、茶道の理想的目標は、見性を得ていくことであり、徹底的な己事究明の旅路に志をたてるということなのです。

見性を得るということは、菩薩になるということをいいます。

巨象の如く偉そうに振舞うのでもなく、澄まし顔の猿になるのではなく、菩薩心を内に抱く茶人になるということなのです。

弘法大師空海さまが著された『般若心経秘鍵』の中に「佛法遥かにあらず、心中にしてすなわち近し、真如外にあらず、身を棄てていづくんか求めん」というお言葉があります。

仏さまの真実の教えは、遠いところにあるのではなく、私の心の近くにあり、悟りは、外にあるのではなく、自分自身の心に尋ねるべきであるという意味になります。

道元禅師は、このようなお言葉を私たちに残してくれています。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。

自己をならふといふは、自己をわするるなり。

自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

この有難いお言葉の境涯を得て、茶道の修行に励んでいくことが理想的であります。

茶道の修行を通して、心中にある菩薩心、本来の面目を呼び覚ましていきたいものです。

茶道の一挙手一投足の中に菩薩心が生きていないといけないとも思うのです。

だからこそ、おろそかになりやすいお茶をいただくときの自分の姿勢にも気を付けなければならないとも思うのであります。

私が幼いころ祖母とともに出かけたお茶会で、一服のお茶をとても愛おしそうに飲んでいたおばあちゃんを見たことがあります。

腰は曲がっていながらも、美しい所作でお茶をおしいただき、顔を動かさず、茶碗も下げず、愛おしそうにお茶をいただいている姿に神々しさを感じとり、感動したのを今でも覚えています。

世間の人はたかがお茶をいただくだけと言うかもしれませんが、茶の名の付く道に歩む私たち、茶人は、お茶をいただく姿勢こそ気を付けなければなりません。

あまりに当たり前すぎておろそかになりやすいお茶をいただく瞬間だからこそ、一挙手一投足を大切にしたいものです。

沙門 宗芯清竜