先月の初釜では、私の祖母であり師の宗弘師匠の美味しい濃茶をいただき、何とも言えない幸せを感じました。
このような有難いお茶ある瞬間を祖母、お弟子さんと共有できて、私は本当に幸せ者でございます。
さて、世間では、雑談に花を咲かせ、楽しまれていると思うのですが、茶道の世界では、世間話に気を付けなければいけないとされています。
『山上宗二記』によれば「公事の儀、世間の雑談、ことごとく無用なり。夢庵狂歌にいう。我が仏、隣の宝、聟舅、天下の軍、人の善悪」とあります。
現代語訳すると「裁判のこと、世間話などはことごとくしてはいけません。連歌の宗匠である夢庵の狂歌にも詠まれているように、自分の宗教や信仰(法論を仕掛けるということ)人の財産、家族の愚痴、政治経済、他人の噂話やこの場にいない人の善し悪しなどの人物評は、しない方がよいとしています」という意味になります。
このような話から、争いに発展する、不仲になるといった話は世間では多いと聞きます。
これらの世間話は、いつ落ちてもおかしくない、危険な吊り橋を渡り、益のない橋の先に行こうとしているようなものなのです。
やはり人と人が互いに敬い合い、和やかな空間で心と心の真剣な対峙を大切にする茶道の世界に争いを生みかねない話題は避けた方がよいとなるのは当然ではないでしょうか。
仏菩薩の清浄無垢な世界を理想とする茶道では、人を苦しめ、傷つける可能性のある話、場をよどませる話はふさわしいとはいえないのではないでしょうか。
先月の初釜でこのようなことがありました。
ある一人のお弟子さんが、兄弟弟子でやり取りしていた趣味の話からさらに発展し、懐石でお酒を飲んでいた影響かはわかりませんが突然このようなことをいいました。
「釣りを趣味にできるといいですよね。そしたらその日に釣った魚をさばいて茶事をできますし、きっとその茶事は楽しいですよね」と言っていたのです。
私はそれを聞いてこのようにいいました。
「逃げていこうとするものをなぜ執拗に追うのですか。私は、そのような茶事に招かれても行きませんし、楽しいものとは思えません。一匹の魚が悲しみの中で死んでいったと思うと、悲しい気持ちになり、笑うことなどできません。茶道の理想は、仏菩薩の清浄無垢な世界です。そこに殺生を想像する話を持ち込むことはいかがなものでしょうか。ましてや、招かれた初釜にその話題はよろしいとはいえません。あなたは普段、人を笑顔にするようなお茶がしたいとおっしゃっていますね。その笑顔は人限定なのですか。あなたが実家にいる家族の猫ちゃんの幸せと健康を願っているように、魚にもそれを願う家族がいるものです。生きとし生けるものが幸せでいてほしい・・それがあなたの本当のおもいではないですか」とお弟子さんの目を見ていいました。
すると、キッと姿勢を正し「はい、そうです。気を付けます。すみませんでした」と心の居ずまいを正していきました。
その姿勢にさらなる熱と輝きを見て、師として嬉しくなりました。
さて、彼は、普段からお稽古にも熱心で、言葉にも気を付け、周りを和やかにする力のある素敵な人です。
人を笑顔にするお茶、癒しになるようなお茶を志して、数年が経ち、今年からさらなる飛躍を期待されている人なのです。
心根がとても優しく、猫ちゃんの幸せと長生きを願って、涙を流せる、本当に人のできた、素晴らしい人なのです。
私も彼から教わることも多いのです。
そんな彼も酒の魔物に一瞬とりつかれて、楽しさのあまり、我を失うふるまいをしてしまったのです。
だからこそ、いきすぎた話には、発する言葉には、自分の立ち振る舞いには常に気を付けなければなりません。
私たち人が発する言葉には力があります。
生かすことも殺すこともできてしまう力のある言葉なのです。
言霊幸わう国である日本には、言葉のもつ力をよい方に導こうと大切に育んできた歴史があるのです。
一本の樹木から美しい葉が生い茂っていくようにという願いの形を言の葉といい、私たち日本人は一つ一つの葉を大切に紡いできたのです。
人を傷つけるような言葉、人を悲しませる言葉、人を苦しめるような言葉、場をよどませる言葉には気を付けなければなりません。
自分が放った言葉で人を不幸に、人の心を枯らせてはいけません。
その人に放った言葉はいつの日か呪詛となり、我が身を傷つける刃に必ずなるのです。
自ら不幸の扉を開いてはいけません。
さて、十善戒の中にも、不妄語、不両舌、不悪口、不綺語という口の善業があります。
不妄語とは、嘘や偽りを人に言わないこと。
不両舌とは、人それぞれに違うことをいい、争いの種をばらまかないこと。
不悪口とは、人を傷つける言葉を使わないこと。
不綺語とは、むやみやたらに飾った言葉を使わないこと。
当然日常生活でもこの口の善業は意識しなければなりませんが、茶道の中でもさらにこの口の働きには気を付けなければなりません。
自戒とは、自分で自分を戒めることをいいます。
このもう片方の戒める自分こそ仏さまであると考えることが出来るのではないでしょうか。
自戒こそ心を練る術であり、私たちが毎日を健やかに幸せに生きるコツなのではないでしょうか。
日々を大切にして、慚愧と懺悔の中で生きていきたいものです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
何一つ善を成せぬ我ながら
慚愧懺悔の中に仏の大悲大恩を知る
ありがたや
ありがたや
沙門 宗芯清竜