この頃は、茶道が海外の方にさらに親しまれるようになり、とくに抹茶の需要は急激にのびているようです。
各御茶屋さんも、供給が間に合っていないようで、ご苦労があるとのお話を聞きます。
私たち日本人の歴史に根ざしているお抹茶もけして当たり前ではないのだと、深く思わされる今日でもあります。
日頃から美味しい御茶をつくってくださる、御茶屋さんに感謝申し上げます。
さて、タイトルにあります不という字は、主に否定的な事柄を表現する場合に多く用いられるものでもありますが、そうとも思えない事柄にも使われるため、考えさせられる不思議なそういう文字でもあります。
例えば、人の魂は是とし、不とし、ある人はそれを思えず、ある人はそうとも思います。
人と魂の是非について議論したところで、答えは出てこないように、一種の人間の認識や理解によって不は変容するから、摩訶不思議なものであります。
不審、不完全、不足などの言葉は、怪しい、十分ではない、足りないなどとネガティブな言葉として世間では使われますが、不審は禅語の「不審花開今日春」人間の人智を超えた自然の雄大さ、偉大さ、不思議さに感動するというポジティブな意味でも使われたりします。
また、日本的美は西洋のととのえられた完全な美と異なり、不十分な不完全で不足さを尊ぶものでもあります。
人の認識や理解を超えた先にある、美しさの極致に私たち、日本人は、不思議とひかれる習性があるようでございます。
不足や不完全を最良とし、自らの心の目で足りない部分を補い、美しさを完成させることを私たち日本人は古来より楽しんできました。
例えば、お空に輝く満月も美しいものでもありますが、雲に隠れている月の半分を自分の心であれやこれやと想像し、補い、その美しさに愛する風雅もまたよいものではないでしょうか。
余情残心という言葉もありますが、心に浮かぶ月を尊ぶのも風流な楽しみになるのです。
わび茶の礎を築いた村田珠光は、満月よりも「月も雲間のなきは嫌にて候」雲に少し隠れる月が最も美しいと言いました。
このような情感が、さらに深め、洗練させてきた文化こそ、茶道でもあります。
心にある美しさや世界観を表現する方法に歌道、茶道があります。
とくに茶道はこの和歌や連歌といった、日本人が古来より愛してきた言の葉の美学を取り入れてきた歴史もあります。
和歌は見えるもの、見えないもの、自然や世の中のこと、自分の心情を歌にして詠むものでもありますが、不思議である事柄、無いものを有るとみて、表現し、言の葉とし、あらわにさせる文化でもあります。
竹野紹鴎は、定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」に茶道の美を見出し、千利休は「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」に茶道の美しさを見ました。
見えないものの中に美しさを感じる心を求め、そのあらわになる心の美しさに心惹かれるというそれが、日本的な美しさでもあります。
円覚寺の管長をされていた足立大進老大師は「花も美しい、月も美しい、それに気づく心が美しい」といわれたように、気付ける自分の心がまさに仏さまの御心でもあるのです。
このように歌道における美の源流が茶道の中に取り込まれ、生かされてきました。
茶道の実践においても、亭主は持っている知恵や経験などをすべて総動員して、茶道の逸話、仏教の逸話、古典文学、和歌や連歌、漢詩、季節感を取り入れ、お客様を思いながら、道具を一つ一つ組んでいきます。
現代は季節感を大事にしておりますが、利休の時代は、より禅的と申しましょうか、無事なお茶、安楽なお茶を最良としていた節が会記や逸話からうかがえます。
それは、日本的な美を捨ててしまうというわけではなく、さらに美しさを深めていく方便であり、執着することなく、無視するでもなく「心なる美」を自由自在に用いて、無事、安楽の滋味を楽しむということです。
死が間近にあった、戦国時代だからこそ、生を感じる茶道の空間は、最大のごちそうであったのだろうと思います。
さて、茶道の世界は一器三様とも言われています。
水指に使っていたものが、懐石の預け鉢になったり、菓子器になったりと一つの器が三つの器に化けるからであります。
大量の茶道具を求めなくても、一つの道具を上手く用いる茶人の力量により、器は変幻自在に変化するということであります。
井戸茶碗を至高とし、点前茶道に手厳しい柳宗悦は、茶人に求める資格の一つにこのようなことをあげています。
「美しさへの正しい直観を持ち、筋の通った道具の所持者であること。名品が揃わずとも、無銘品でもよく統一のとれた持ち方ができることが肝心であり、この力がないと美しさのことはわからない」と喝破されています。
さて、心なる器を思うに、我が身は、天から授かった一つの借り物とみることができます。
例えば、激しい川のように移り変わりやすい私たちの感情も、肉体が思考し、あるように思わせているにすぎないのです。
その事が真実であるように思い、現実にあるのだと考え、もがいたり、苦しんだりしますが、その働きは、本当の心が求めているものではなく、借り物の肉体が快感のために欲しているだけのものだったりします。
自分に嘆くのは、心がそう叫んでいるのではなく、肉体が「それではいけない」と思い込ませているだけなのかもしれません。
心成る器とは、安楽の尽きることのない、世界を創造するものであり、美しい心が実った、理想郷でもあるのです。
茶室に生のあるものは、お花と炭と人でありますが、一輪のお花に仏を見出し、たえず燃える炭に人生を思うとき、生への躍動は凄まじいものとして受けとめることができるのではないでしょうか。
心というものは、絶えず生まれと死を繰り返すものであるように、茶人は生まれたらすぐに消えゆく、儚くも美しい茶世界をこの世に建立しているのです。
儚くも美しいお茶の世界を主客一体となり楽しみ尽くし、余白のあるところ、不足の部分をうめていくのを最大の喜びとしていくのが、茶道の醍醐味でもあります。
そのために茶人は、自分の持てる全てを総動員して、精一杯、今の茶世界を創造していくのであります。
お客さんの心に美しい余情として、喜びを残心として、残り続けるような世界を人々と共有したいという、お茶人の願いがあるのです。
美とは、見えぬ万物を徹底的に貫き、生かす人ができる最大の人の営みです。
動物ではできない人の心のみが醸し出す世界でもあるのです。
このような話を聞きます。
若き頃は、美男美女に憧れ、美しいと見た。
その時、自分もそうなりたいと。
しかし、歳をとると、見た目ではなく、心が美しい人に憧れ、美しいと見るようになった。
自分も今そうなりたいと。
私たち日本人は、昨今忘れかけてはいますが、見た目ではない、見えぬ美しさに感動を覚える民族なのです。
見た目に支配されない、心がととのったときに、はからいをそぎ落とした時に、本当の安心と安楽は得られるのでしょう。
そこに不という一字のもつ、幽玄、幻の美しさを思うのです。
不完成でいるからこそ、不滅なのであります。
最も美しいと思える、景色をこの世に手渡しできるのであります。
最後に一休さんの歌を紹介いたします。
鬼といふおそろしものはどこにある
邪見な人のむねに住なり
鬼の目になみだは何の涙なる
ぢこくの釜の下がくすぼる
最後までお読みいただきありがとうございました。
ご質問をいただくのですが、ブログの最後にのせる言葉は、私がフッと思ったことを書いているだけです。
餓鬼に一服
亡者に花
さすれば地獄の釜も不用なり
たぎらせる地獄釜より
湯をすくい 鬼神ともに茶をすする
沙門 宗芯清竜