先月の初風炉の時期では、大徳寺塔頭瑞峯院の前田昌道老師の「風動き鶴松に帰す」を床の間にかけ、基本で、最も大切にしなければいけない運びの点前をお弟子さんとともにお稽古しました。
大徳寺に参拝した折に、前田昌道老師と少しだけお会いしたことがありますが、とてもお声が大きく、お声とお姿から元気をいただいたのが、懐かしく感じます。
6月は、高野山に行くため、お稽古が一日しかありませんが、一生懸命、お弟子さんとともにお稽古に励みたいと思います。
さて、茶道のお稽古をしている方で、自分は無能であるという自覚をもって、日々のお稽古と向き合っているでしょうか。
無能と聞くと、厳しく、きつい言葉として受けてしまいがちですが、茶道の世界では少し違った角度から、考えます。
利休さんの高弟であった山上宗二が著した『山上宗二記』には、このようなことが書かれています。
原文
一 茶湯者ハ無能ナルガ一能也ト紹鴎弟子共ニ伝、注ニ曰、人間ハ六十雖ニ定命其内身ノ盛成事ハ廿年也、茶湯ニ不断染身サヘ道ニモ無上手ハ彼是ニ心ヲ懸ハ悉下手之名ヲ可取、但シ物ヲ書文字計ハ可赦ト云々
現代語訳
一 十条 茶の湯者にとって、無能であることを自覚していることが一番の能力である。と紹鴎は弟子達に伝えている。改めて解すれば、人間の寿命は60歳までと言われるが、その内、心身ともに盛んで健康であるのは、およそ二十年である。常日頃から茶の湯の道にのみ専念していても、たったの二十年では「上手」といわれる境涯に達することはできないのである。これは茶の湯のみに限ったことではなく、どんな道でも同じことである。ましてや、あれこれに心をかければ、すべての面において「下手」と見なされるようになってしまう。ただし、物を書く文字については、あらゆる書風に手を出しても許される。といわれている。
私たち人は、あらゆるものに心を奪われやすく一つのことのみに専念することが難しいものであります。
ましてや趣味の選択が多く、娯楽とされるものに溢れている現代だと、余計に専念させることを難しいものにしているかもしれません。
茶道をお稽古してから私も20年以上経ち、利休さんのいわれた「茶の習い上手に20年の越し」をこえましたがまだまだ未熟者であります。
茶の湯にも造詣が深かったとされる一休さんの歌に「悟らぬも悟りも同じ迷いなり、悟らぬ先を悟りとぞいう」があるように道の修行に終わりはなく、出来ると思っても、同じことを繰り返していくことが、大切であります。
そのような繰り返しのお稽古の中、一区切りといわれる20年の峠をこえて、気付けたことは、真の意味において自分がいかに無能であり、いかに大馬鹿な小さき者であるかということであります。
この反省の念とともに抱いたのは、茶道をもって生涯を生き尽くしたい、いまだ見えぬ茶の湯の真髄に少しでも触れたいという道をさらに求める希望であります。
旅路もすぐに終わっては悲しいものです。
だからこそ、先にさらに広がる茶道の世界にワクワクがとまらないのです。
無能であるという、深い自覚の中には、力強い歩みと、絶え間のない希望があるのです。
そして、無能であるからこそ、心は強く、わき目もふらずただ道に磨きをかけていけるのです。
この思いの中に自然と「茶の湯上手」が宿っていってくれると嬉しいものです。
さて、不白筆記には、茶の湯の悟りを表現した箇所があります。
以下は原文と語訳です。
原文
功不積用不妙
一 内にハ語道ヲ定メ、外ニハ茶之湯ノ事サヲ露ス。
現代語訳
功を積まざれば用は妙ならず
一 心の内ではよく茶の湯の道を悟り、外向きでは茶の湯のわざを行います。
功を積むとは、実績をあげることではなく、仏道への求めをいいます。
仏道でいうところの有と無、体と用の有と用が無や本体に働く相の作用をいい、妙な無上の境涯を悟りと申します。
川上不白がこの言葉に込めた意味を見ていくと、茶道において仏道の心が何より重要であり、その仏の教えの実践がなければ無上の境地、茶の湯の真実の気付きには達することができないということになるのではないかと思います。
利休さんのお茶は、宗教的、もっといえば仏道の実践としての茶道であった、側面もあるように感じます。
大徳寺の古渓和尚が利休居士号の賀頌として「泉南の抛筌斎宗易はすわなち予の三十年飽参の徒なり、禅余茶事をもって務となす」と利休さんの徳を褒めたたえています。
円覚寺の横田南嶺管長猊下は「無心の心に気がつき、さらにその無心の心を新しく現実の世界に働かして生きることを禅の生活というのであり、まさに茶道というのは、禅の心を実践するものといっていいでしょう」と茶道の中の禅の実践について私たちにお説きくださいました。
例えば、点前のとき全集中をして、ただひたすらに一挙手一投足の動き、心の働きに一生懸命に全神経を集約していくと、波うつような心がしだいに静かに落ち着いてきて、心にはからいや一点の塵、穢れのない澄みきった世界があらわれます。これを無心の状態ともいえるのではないでしょうか。
このように茶道と仏道は、密接な関係にあるといえるのであります。
最後までお読みいただきありがとうございました。
無能こそ最良の生きる能なり
未だまことの無能を自覚せぬうちは
我慢我執の匂いがとれぬなり
沙門 宗芯清竜