先日は、お弟子さんの表千家講師任命式、宗名授与を厳修いたしました。
私が育てさせていただいているお弟子さんではじめての講師任命です。
嬉しくもありますが、師匠として、身がさらに引き締まる思いがします。
宗名の「渓」の一字は宋の時代の詩人である蘇東坡の『東坡禅喜集』の偈から選びました。
蘇東坡は、常総禅師について禅の修行を廬山でしていた時「無情説法話」という公案を出されました。これがなかなかの難問でございまして、無情なるもの、すなわち川や木、山、花などの自然が説法するとはどういうことかという問題であります。
才人として有名であった蘇東坡もこの難問に頭を悩ませ、とうとう解くことができず、師のもとを去り、山を下ります。下る途中の谷川の水のせせらぎを聞き、その瞬間、すべてを理解することができ、つくったのが、この偈だとされています。
渓声便ち是広長舌
山色豈に清浄身に非ざらんや
夜来八万四千の偈
他日如何か人に挙似せん
意味
谷川の水のせせらぎは、仏さまの説法ではないか。
雄大な山々は仏様のお姿そのものではないか。
この素晴らしい情景をどのように人に伝えられようか。
この喜びを言葉では人に伝えることができない。
宗渓さんは、10年間ほど茶道のお稽古を私と共に励んでおりますが、本当に心根の美しい実直な人でございます。
人を笑顔にできる御茶をしたいと束脩式で志してから、10年間も頑張ってこられました。
美しいものを美しいと心の底からおもえる心の持ち主で、その素直さが茶道にも生かされています。
お花を見て微笑み、鳥や虫の声を聞き、喜ぶことのできる、美しい人でございます。
優しい言葉で人を喜ばせる力のある人です。
これからは、稽古人としてだけではなく、茶道の先生としても人に寄り添い 人をよく助け、人の心を照らすような立派な茶人になれるように茶道を、心の修行をますます頑張っていってほしいと思います。
さて「あるべきよう」について考えてみたことはあるでしょうか。
人のあるべきよう、私のあるべきようなど、考えていくことができます。
明恵上人は『遺訓』の中でこのように「あるべきよう」を説かれています。
原文
人は阿留辺畿夜宇和と云いふ、七文字を持つべきなり。
僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり。
乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。
此あるべき様を背く故に、一切悪きなり。
我は後世たすからんと云いふ者に非ず。
ただ現世に先ずあるべきやうにて、あらんと云者なり。
訳
私たち人は「あるべきようは」という七文字をよくたもつべきです。
僧侶であれば僧侶の「あるべきよう」があります。
俗人であれば俗人としての「あるべきよう」があります。
帝王には帝王としての「あるべきよう」があり、その臣下ならば臣下の「あるべきよう」があります。
この「あるべきよう」にみなが背くためにすべて悪い方向にいくのです。
私は生まれかわって次の世で救われようなど思う者ではありません。
ただ現世においてまず「あるべきよう」につとめようとしている者なのです。
私たちも茶人としての覚悟があるのなら、言い訳をならべ、そのつとめから逃げる生き方ではなく、茶人としての「あるべきよう」を深く考え、この世の中が少しでもよい方向にいくように助けていきましょう。
さて、昨今は理屈が大事に思われているようですが、茶道はその理屈を嫌います。
難しい理屈をならびたてることは茶道の本筋ではありません。
茶道で理屈を発揮することは、屁理屈者の道をいくようなものです。
理屈のみで実践しないのは、もったいないことです。
茶道は頭でするものではなく、心でするものであり、口先で語るのではなく、心で語ることを大切にします。
それゆえに覚悟ある茶人は、心の修行をしていくことに重きをおかなければいけないのではないでしょうか。
茶人としての「あるべきようは」を考え、茶の心、仏法を実践してくことを大事にしなければいつまでも得道は遠のくばかりです。
このようなことに重きをおき、絶え間のない慚愧と懺悔の中で自分の茶人としての「らしさ」を見出していくのが、茶道でもあると思うのです。
さて、野本道元という茶人の歌にこのようなものがあります。
茶湯こそ直なる道を点て習ひ
身のよく垢をふりすゝぐなり
茶の湯の稽古をする者は素直で正直な心を身につけ、身に付いた垢をふりそそぎ、直心の交わりができるようにつとめている。という意味になります。
このような心がけを忘れないようにしたいものです。
一服のお茶で人の心が明るくなるように、人が笑顔になるように、そんな御茶をこれからも宗渓さんには、探究していってほしいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
宗芯清竜