挨拶の大切さ

In 私ノ茶乃湯考 by user

先月は、たくさんのご縁に恵まれ、有難い毎日の連続でありました。

高野山では、三日間の礼拝行をかねた受戒を受けさせていただき、無事に満行することができました。

三日間を通して、僧としての自覚をさらに深めさせていただくことができ、また清僧となるべく、さらに精進していく、覚悟をあらたにいたしました。

高野山では、大雨により修行道場までの山道が川のようになっており、片道一時間ほどの足場が非常に危険な道を歩んでいきました。

初日は、受戒の前に仏名会があります。五体投地を何百回と頭から血が出るような感覚になるまで数時間、一生懸命に頑張り、滝のような汗が全身から出てきました。

頭を打ち付けすぎたのか、一生懸命にやりすぎたのか、強烈な熱中症に襲われ、何度も気を失いそうになりながらも、鳥の声や雨の音に神仏の応援を感じ、乗り越えることができました。

本当に有難い、高野山での日々でございました。

京都では、千家十職のある方とお会いする約束があり、楽しくお話を通わさせていただき、美味しい御茶もごちそうになり、楽しいひと時でございました。

北海道神宮では、お家元の献茶式に参列させていただきました。

最初は雨が降りそうなお天気でしたが、お家元による献茶を終え、外に出てみると、天気模様がガラッと変わっており、雲一つない、快晴になっていました。

お家元のお力を感じるとともに、美味しい御茶に喜ばれた神様の御心をおもい、なんとも有難い気持ちになりました。

点心では、肉食しない私のためにお弟子さんがお肉と魚、貝類を食べてくれました。

一つだけお弟子さんが食べられないものがあったようで、それを見ていたご年配の先生が、私が食べます!とお声をかけていただき、本当に助けられました。

ありがとうございました。

お茶席では、お家元とご一緒させていただきました。

美味しい御茶、お菓子に心と口が喜び、ご亭主の思いの心があふれたもてなしとお言葉に心が満ち、とても楽しい、ひとときでありました。

さて、挨拶を皆さんは大切にしているでしょうか。

高野山では、すれ違う時、挨拶を交わします。

知らない人でも知っている人でも、ひとしく挨拶を交わします。

その瞬間に私は幸せを感じます。

もともと挨拶は「一挨一拶」という禅の中から生まれた言葉とされています。

挨は相手に接近し心内を見せること、拶は、相手におし迫ることを意味し、僧侶同士が出会ったとき、相手がどれくらい仏道を進んでいるかをたしかめるためにしていたようです。

そのため昔は挨拶は軽いものではなく、一対一の真剣な瞬間であったとされています。

挨拶が人と人の心の距離をグッと近づけてくれるものは、皆さんも経験していると思いますが、昨今はこの挨拶をやめようという動きもあるようで、とても悲しい思いになります。

防犯上の理由からとの話は聞きますが、それが本当に防犯になるのか、再考しなければいけないと思います。

また今の子どもは挨拶ができないという話も聞きます。

先の防犯上から挨拶をさせない親御さんもいるとは思いますが、挨拶のできない大人がたくさんいるということも原因ではないかと思います。

その原因をたどっていくと、しつけをおろそかにしてしまっている現代の日本の問題が出てきます。

堀内宗心宗匠は、しつけについて「暴力とまでいかずとも、力を使って人を型にはめることを「しつけ」のように思う人もあります。これは大間違いであります。しつけとは、納得のいく日々の生活を通して身につけていくものなのであります。しつけとは良識に裏付けられたもので、しつけを実行することは、一つの誇りでもあるのです。子どもにしつけをするのは可哀想といって、しつけをしない親もありますが、子どもの間にしつけを受けない人は、その間、知恵が発達しないので気の毒なことであります」としつけについて説き、続いて「お茶の日頃のけいこの積み重ねというのは「教え」というより、むしろ「しつけ」であります。立派な題目をたくさん並べるより、茶の湯のなかの平素の所作、動作のなかにお茶の効用があります」とご著書のなかで書いております。

お茶席の正客さんを見ていると、色々な方がおります。

席に座っても、同席の皆さんに挨拶せず、黙ったままの方、席に座り、同席の方全員にむけて挨拶をする方、見ていて思うのは、挨拶を交わしたお席のほうが、和やかに終始進んでいくということです。

お茶のお稽古をしている皆さんにはご一緒に、この挨拶を日頃から大切にしてほしいと思います。

挨拶という日常の行動が、茶事の心の交感を助けてくれるものだと深く思いましょう。

私たち、茶人は挨拶が礼の基本にあるのだと忘れないようにしましょう。

さて、弘法大師空海さまは、このような言葉を残しています。

世間の大人は麤言雑染相応の語を出だすべからず

大人たるものは、荒々しい言葉や、けがれた悪口などを口にするものではない。という意味があります。

挨拶からはじまった心の交わりを、けがれた言葉、人をいじる言葉、人を傷つける言葉でつなげてはいけないのです。

人を傷つける言葉は、自分を傷つける刃になり、しだいに心をむしばんでいくのです。

枯れた言の葉にならないように日頃からの言葉に気をつけましょう。

挨拶は気持ちのよいものです。

よく知らない子どもが駆け寄ってきて挨拶してくれるのですが、本当にうれしいものです。

茶人帽に法衣を着て歩いている大人が珍しいのか、それとも話しかけやすいのかわかりませんが、気持ちの良いものです。

この前も道にチョークで丸が書かれており、ケンケンパができるようになっていて、やりたくてしょうがなかったのですが、急ぎの用事があり、断念してしまいました。

急ぎの用事を少し忘れ、ケンケンパを子どもたちとしていれば良かったと今に思います。

懈怠の比丘と子どもたち、それも楽しかったかもしれませんね。

7月は、野球選手を目指し、寮暮らしを頑張っている男の子が会いにきてくれます。

連絡のやり取りしていたのですが、久しぶりの再会なので、楽しみです。

またこの前、お母さんと会いにきてくれた子が12日からお稽古をはじめるので、ご一緒にお稽古を頑張れたら、うれしいです。

近日中にお家元から講師に任命される予定のお弟子さんにも、子どもたちに茶道教授を手伝ってほしいと思っています。

このたびのお話は、私事が多く、お目汚しで申し訳ありません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

〇×□になにおもう

おもいおもわず

まるばつしかく

宗芯清竜