善き縁

In 私ノ茶乃湯考 by user

先日、第五回目のチャリティー茶会を覚王寺さんで開かせていただきました。

当日は、大雨に見舞われ、皆様が無事にお越しいただけるかと案じておりましたが、ありがたいことに多くの方が足を運んでくださいました。

おかげさまで、子どもたちの笑顔に満ちた、明るくあたたかいお茶会となりました。

あらためて、深く御礼申し上げます。

私たちは「よいご縁に恵まれますように」と神仏に願うことがございます。

人との出会いを願う方もあれば、家庭円満や事業成功などの縁を求める方もおります。

それぞれの願いの奥底には、心安らかで豊かな日々を送りたいという確かな思いがあるのでしょう。

私たち日本人は、古くから、目には見えない「縁」というものを信じ「神仏」との結びつきを大切にしてまいりました。

私の曾祖母も「どんな縁も大切にしなさい。決して切ってはいけません」と祖母や母に申していたそうです。

その曾祖母から受け継がれてきた言葉が、今も家族の胸に響き残っております。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』というお話を、多くの方がご存じでしょう。

地獄に落ちた犍陀多という大泥棒を見たお釈迦様は、彼がかつて道端の小さな蜘蛛を助けたことを思い出されました。

その慈悲の功徳を思い、一本の銀色に輝く蜘蛛の糸を地獄に垂らされたのです。

犍陀多は糸をつかみ、上へ上へと登っていきます。

ところが、下からも多くの罪人たちがのぼってくるのを見て「これは俺の糸だ、罪人ども降りろ!」と叫びます。

その瞬間、糸はプツンと切れ、彼は再び暗闇の地獄へと落ちてしまいました。

お釈迦様はその光景を見て、静かに悲しげなお顔をなさったといいます。

この物語は、私たちに多くのことを教えてくれます。

生きとし生けるものを思いやる心、目の前の人のための幸せを願い行動する優しさ。

そうした心の働きが、仏さまに繋がり、心の内の仏性を開かせる「善きご縁」のはじまりなのだろうと思うのです。

生きとし生けるものへの小さな思いやりが、目の前の人への優しき思いが明日の未来の善き縁を生み、やがては自らを救う糸ともなるのだろうと思うのです。

近ごろは「自分ファースト」という言葉をよく耳にします。

もちろん、自分の幸せを願うことは、悪いことではありません。

しかし、それが行き過ぎると、人を傷つけるようになり、心は荒れ、心は渇きに常に苦しみようになり、何をしても満足を感じられない、修羅の日々がおとずれるものです。

「好事も無きにはしかず」という言葉もあります。

よいことに執着し、苦しむようなことになるのであれば、よい事は最初からない方が心静かに暮らせるものなのです。

よい事というその喜びが未来の苦しみに変わることもあるのです。

今が幸せだったとしても、それが本当の心の充足をもたらし続けるかは限りません。

求める幸せが本当の幸せになるかもわかりません。

釈宗演老師は、今から百年以上も前にこうおっしゃいました。

「アメリカから個人主義が入り、恐ろしい勢いで広まりはじめた。いちいち自己を中心にして割り出す。これが高じると危険思想にもなるのです」と老師は、その個人主義の危うさを見つめつつ、その対策として「我が日本人の思想として中心に置くべきは、感恩の精神である」と教えてくださいました。

「感恩」とは「おかげさま」という心が中心にございます。

見えぬ縁に支えられて今の自分があることを感じ、深く感謝する心です。

現代では、成功すれば自分の力、苦しめば自己責任と考えがちです。

そして、その基準は自分のみならず人にもあてはめ見てしまいます。

けれども、本当の成功とは、見えざる縁への感謝と人々と分かち合いの中から生まれる輝きをいうのではないでしょうか。

富める者が貧しき者を責めるとき、その人はまだ真の成功者ではありません。

どれほど華やかに見えても、心が成っていなければ、まことの成功とは言えないではないでしょうか。

さて、茶道の世界も、今やいろいろな変化の中にあります。

抹茶の不足、茶道人口の減少が大きな問題になる、その一方で、新しい表現や試みも盛んになっております。

それぞれの工夫には意味や願いがあることでしょう。

けれども私は、静寂の中に息づく茶道をこよなく愛しております。

古きものを尊重しながら、新しき価値観をそっと添えるところからまことの新しい美が宿るように思うのです。

新しい取り組みが残り続けているかは、後の歴史が教えてくれるでしょう。

けれども、茶の湯の中の「まこと美しき聖域」は、決して変わらぬものだと思います。

お釈迦様の教えが二千年以上を経ても人を救い、利休の美が四百年以上を経ても人の心を打つのは、それらが人の真実を深く貫いているからでありましょう。

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」と申します。

私たち茶人もまた、その言葉を胸に刻みたいものです。

「書付三十年、好み五十年」という言葉が茶道にはあります。

自分のすきを表現できるようになるまでには、長い茶道の修行が必要でございます。

功を焦らず、己を飾らず、ただ静かに心を澄まして茶の道を歩みたいものです。

人を傷つけ、苦しませるお茶は、もはやお茶ではありません。

自分を飾るためにお茶を用いることも、茶の湯の本意ではありません。

仏に供え、人に施し、我も飲む。と古人も申しておりますが、一服に心を尽くすのが茶道の基本になるのでしょう。

その当たり前の静けさの中に、茶道の根本の教えがあるのだと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

茶僧 宗芯清竜