先日、金剛流能楽師・種田先生の講演会に伺いました。
とても楽しく、また多くの学びをいただきました。
その講演の中で、世阿弥の「初心忘るべからず」について、先生は次のようにお話しされました。
「初心忘るべからずというのは、習いたての頃の感覚や過程を、いつまでも大切にし続けることです。茶道でいえば、初めてお点前をしたときの手の感触や心の動き、そこに至るまでの過程を、時折思い出すこと。それこそが初心を思い出すということなのです」
茶道においても、「初心に立ち返る」ことは何より大切なことです。
最も恐ろしいのは、慣れた心でお茶と人に向き合うことではないでしょうか。
水屋の仕事、点前の進め方、茶道具の扱いなどを習得することは、もちろん大切な稽古です。
しかし、それにばかりとらわれ、本来大切にすべき心を置き去りにしてしまっては本末転倒です。
ましてや、慣れた心、慢心に染まった心で一服を点てることほど、失礼なことはないと思うのです。
利休さんの言葉に「茶の湯とは、ただ湯をわかし、茶を点てて、飲むばかりなる事と知るべし」とあります。
この「ただ」という言葉には、茶道の精神がすべて込められているように感じるのです。
「ただ」とは、無心というだけではなく、余計な思惑や雑念を捨て、はからい心を離れ、一服のお茶と目の前の人に、まっすぐに心を向けるということです。
人に「美しい」「かっこいい」と思われるために稽古をするのではありません。
自らを誇り、飾るために茶道をするのでもありません。
茶室に集う「今ここ」にある命と命が、互いに生かされる喜びをかみしめ、何のはからいもなく、素直に交わることこそ、茶道が大切にしてきた歴史なのです。
初心とは、未熟さを示す言葉ではなく、熟達の果実でもあります。
堀内宗心宗匠は「できると思っても、同じことを繰り返す。それがお稽古です」とおっしゃいました。
ただひたすらに稽古を重ねていく、その積み重ねの中に、初心の在処があります。
どれほど茶歴を重ねようとも、慣れた心に染まらず、初めの心を失わないようにせねばなりません。
長い年月の稽古は人を大木のように成長させ、貫禄をもたらします。
けれども、それを表に出さぬことこそが茶道であり、茶人の美しい立ち振る舞いだと思うのです。
私たち表千家の茶は「清らかな水がただ流れるように」という淀みのないお茶を理想とし、ことさら目立つことを好みません。
私たちは「自分はできる」と思うと、つい目立ちたくなり、他の人の小さな誤りを見つけては口出ししたくなるものです。
けれど、それが本当に良いことなのか、よく考えねばならないのではないでしょうか。
ましてや茶会やお茶事において、亭主や客を辱めるようなことは、茶道が最も慎まなければならないことではないでしょうか。
人を傷つけ、苦しめる立ち居振る舞いをする者は、茶人ではありません。
そうならぬよう、謙虚に静かに心の働きを大切にする者こそ、茶人であると思うのです。
最近は、過程よりも結果を重んじ、目立たぬことよりも目立つことを良しとする風潮が見られます。
しかし、それが本当に茶道の最良であるのか、改めて考える必要があるのではないでしょうか。
猶有斎宗匠は、十月の会報誌で次のように私たち表千家の門人にお示しくださいました。
点てられたお茶はあくまでも「結果」です。
おいしいお茶を点てるために、点前作法を習得するのですし、茶会を催すとなれば道具の取り合わせを考え、季節に応じた菓子を選び、茶室や露地をととのえて客を迎える。
その目に見えない「過程」の部分こそ茶の湯の大切なところがあるのですし、結果の部分だけではなく、そうしたところに目を向けることを忘れてはいけないと思うのです
今日いただく一服は、当たり前の結果ではありません。
見えぬ多くのご縁と過程に生かされ、今、私たちは一碗を手にしているのです。
どんなお茶も、初めていただくように静かに、ゆっくりと味わうことができたなら、どれほど心が満たされることでしょう。
その一瞬一瞬の働きの中に、茶のこころが、命が、息づいているのだと、あらためて感じることができる日がまた好日となっていくのでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
茶僧 宗芯清竜
