無常とたぎるもの

In 私ノ茶乃湯考 by user

明くる日に襲った能登半島地震において、大切なご家族、ご友人を失った方々に深い哀悼の意を捧げます。

大切な人を失ったお心を思うと、とても胸が張り裂けそうで涙が溢れてきます。

また、被害を受けられ心を痛まれている方、地震によって怖いおもいをしている方のお心が少しでも癒えることを札幌より御祈念申し上げます。

当庵としても出来る限りの支援をさせていただきたいと思っています。

「無常ですね・・」「新年早々に・・何もなければいいですね」といった声をよく聞きます。

仏教では、三つの真理を無常、苦、無我といい、これを三相の真理というようです。

これらは、苦しみから遠ざかるために明らかにすべき問題だとされております。

とくに無常は「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり・・」と平家物語を習いたての小中学生はよく口ずさんで、聞き覚えのあるフレーズではないでしょうか。

無常とは、この世の一切の物、事象は生滅・変化して常に定まりのないこといい、つまるところ最初から常に無~という連続性、絶え間のない変化の中に私たちがいるのだということをあらわした言葉だと思います。

一般的には、人生の儚さをあらわし、人の死の慎むときに使われます。

周りの方々がいう「無常ですね・・」人生は儚いということを言いたいのではないかと思います。

しかし、仏教では、儚さを嘆いた言葉だけではないとされています。

すべてのものは、常に移ろいゆくものであり、一瞬たりとも留まることはないものとされています。

私たちが生きているのもとどまることを知らない細胞たちが活動をしているからであり、清流のように流れる心があるからであります。

しかし、その活動や働きを私たちは肉眼で認識することができません。

このように肉眼では認識できない現象事象、心は常に働き続けており、一刹那のようであります。

私たち千家流の茶人がよく用いる黒茶碗も常に変化しているものです。

時にそれは、使えば使うほど所有者のおもいに共鳴して、肉眼でもわかるほどの変化を見せてくれるものでもあります。

大切な黒茶碗

こちらの黒茶碗も同じところで飲み続けると白く変化していきました。

また、使えば使うほど雅味を感じられるようになり、いわゆる黒茶碗の星というものがよく出ています。

これは、長い月日を共に過ごし、毎日お茶を点てていたからこそ、みえる変化であり、ある日、突然色が変わるわけではありません。

毎日毎日のお茶を点てる時間を通して、変化を積み重ねて、何十年という月日の中ですっかり変わったように見えるだけなのです。

変化のある世界だからこそ私たちは未来に希望を抱きます。

時にその変化は私たちにとって都合の悪く、苦しいものになるのかもしれません。

それでも、果てしない心と心の闘争の日々の積みかさねによって、私というものは自然と磨かれていくのではないでしょうか。

肌感覚で認識している無常観があるからこそ、人はさらに力強く生きていけるのです。

さて、茶道と同じ意味をもつ言葉に「茶の湯」があります。

今日では、茶道の方が親しく使われている言葉ではありますが、利休さん時代の茶人たちは、茶の湯という言葉で親しく通じ合っておりました。

茶の湯とは、茶と湯が合わさった文字であり、お茶を点てる際の釜の湯の重要性を説いた言葉だとされています。

古の茶人たちは、とくに湯を大切にしていたことが文字からもうかがえます。

美味しいお茶を点てるため、釜の湯加減に気を付けるということは、今日の茶人も大切にしている心がけと存じます。

この心がけの意味するところには「よく沸いた釜の湯」でお茶を点てると美味しいという合理的な求めによるところがあります。

また、釜の湯の温度や具合は、もてなすこころの熱量や心の具合を表しているとされています。

古人の残した言葉に「茶の湯たぎれ」があります。

お茶を点てる際は、茶釜の湯は熱くし、沸き立つ湯と同じく心も「たぎる」ほどの熱量を持ちながら、お客様をおもてなしさせていただくことが大切であるということを古人の言葉から私たちは学ぶことができます。

私たち人は、内にあるものが外へと自然と現れ出るようになっています。

心の内が荒々しいと表情や行動、言葉に嵐のような荒れがあらわれ、逆に心の内が具合よく調っていれば、すべてが美しく調って見えるように心の内と外は、コインの裏表のように繋がっております。

茶の湯で申し上げれば、熱い湯は熱い心を、ぬるい湯はぬるい心を表しているといえます。

お茶は、ぬるいことを嫌います。

それ以上にお茶を志す者は、心がぬるいことを戒めなければならないと思います。

ぬるい心あるものは、お茶を点てる資格がないといえるほど、ぬるいことを茶の湯は嫌います。

利休さんは、そういう意味の「ぬるい」ということをとても嫌ったとされています。

また、自分が手ぬるく見られることもきらったとされています。

即中斎宗匠は、ぬるい心の反対の熱い心とは、ぴんと張りつめた心であるといいました。

そして、たぎる心とは、身心をあげて、人や物事にぶつかっていくことであるともいいました。

そのため茶の湯とは、人と人との魂のぶつかり合い、心と心の真剣な打ち合いといえるのではないでしょうか。

たぎるような熱き心をもって茶の湯や人と向き合わなければならないと思うのです。

また、たぎるような志のもと向き合っていかなければ成就しないのが茶の道であるとも思うのです。

そんな人と人のあつい交わりに人々は、茶の湯の可能性や理想を見るのではないでしょうか。

その道と道、互いの心と心が合わさったところに本当のお茶の一期一会はあるのではないでしょうか。

そして、茶人こそ無常、苦、無我といったものにとらわれず、一刹那のお茶の瞬間、人との交わりに全力の心を投じて、生きていきたいものです。

お茶の世界がこれからも美しい変化を積み重ねていき、人と人のあつい交わりによって清浄無垢な仏菩薩の世界がこの世のあちこちで現れ出てくることを願っています。

一人一人に宿る臥龍が目を覚まし、天高く昇っていける年を願い・・

佐々木 宗芯(心徹)