苦しみを背負い

In 私ノ茶乃湯考 by user

新年度の四月、期待や不安を抱きながら、学生さんは迎えたと思いますが、日々を穏やかにお過ごしでしょうか。

小学生の低学年の頃から毎月お稽古に通ってくれていた男の子も時の流れは早いもので、高校生になりました。

その子は、野球選手を目指すため、親元から離れて厳しい寮暮らしをはじめています。

目標を抱いて、歩み出したこと、師としても嬉しく思います。

日々の訓練の積みかさねを大切にできるように、この子の道がさらに輝きに溢れることを願い「古人刻苦光明必ず盛大なり」を懐紙に書き、先月最後の稽古の日に手渡ししました。

渡した時の嬉しそうなお顔が今も思い出します。

最後の稽古日から数えて一年以上前のお稽古の時でしょうか・・

「数年前は5分も正坐できなかったと思いますが、お稽古のたびに少しずつ正坐の時間をのばしていき、今では、ながく坐れるようになったと思います。それは、少しずつでも正坐のたびに苦を背負ってきたからこそできるようになったのだと思います。刻苦光明必ず盛大なり。と古人も申していますが、人は我が身の訓練とおもい、苦しみを味わうほど、しだいに精神と肉体は強くなるものであり、その力によって自分の人生や道は開けてくるものです。楽ばかりを求め、甘い世界に浸かってばかりでは、しだいに心は弱くなり、それは肉体にも影響を及ぼすものです」このようなことをその男の子にお話しました。

それ以来、足を崩すことなくお稽古が終わるまで正坐で頑張るようになり、感心させられたことを思い出します。

そこである日「古人刻苦光明必ず盛大なりですか?」と男の子に尋ねると満面の笑顔で「はい!そうです!」と元気よくお返しくださいました。

このようなやり取りをさせていただいたことを懐かしく思います。

この男の子なら厳しい寮での生活も大丈夫でしょう。

長期休みの時に顔を出してくれるようなので、色々なお話をできることが楽しみです。

刻苦光明必ず盛大なり・・この言葉は、白隠禅師が、迷えるとき、諸仏に道を示してくださいと祈りを捧げ、手に取った本から出てきたとされています。

それが『禅関策進』という書物でした。

慈明和尚という人物が修行時代、周りが寝ていようと、眠くなるたびに錐を自分の股にさして、坐禅に励まれていた話にふれた白隠禅師が感動し、慈明和尚の言葉「古人刻苦光明必ず盛大なり」を毎日称えては修行に励まれたというお話からきています。

心身をすり減らすような苦労をしてこそ、盛大な光が得られるという意味になります。

さらに深めて受け止めていくと、苦労はその人の生き様にあらわれるという言葉がありますが、苦労の歴史がその人を輝かせるのだと思うことができるのではないでしょうか。

苦労によって、人間性ができてきて、立派な精神が養われるのではないでしょうか。

立花大亀老師は「人生の味と、お茶の味、これは相通じるものがある」と喝破されたように、お茶の苦みのなかに何とも言えない甘みがあります。その甘みが最高に美味いと感じるのも、苦みがあるからこそ味わうことができるのであり、それは私たちの人生のようなものだと思うのであります。

お茶の苦さによって、心が養われていくのです。

さて、この頃の社会は、物質的には豊かさを極めているようですが、精神は病むばかりのようです。

十代から三十代の方の一番の死因は、自死という統計にも触れ、悲しくなるばかりです。

どうして死を間近に感じるほどの、苦しみを抱えていかなければいけないのでしょうか。

死を選ぶほど、苦しく、お辛かったのだろうとおもうと、涙が出てきます。

かわりにその苦しみを抱えることができるのなら・・と思うばかりで何もしてあげられない自分が情けなく、申し訳ない気持ちになります。

ある人は、自殺は悪だと、地獄に落ちると言いましたが、仏教は自死を悪とも善とも言っておりません。

むしろ、病の苦しみから自死を選んだ阿羅漢に対し、お釈迦様はお弟子たちに「涅槃にはいった」と答えていたとされています。

地獄に対してもあるともないとも言い切っていません。

言えることは、今の地獄とは、自らの心がつくりだすものであり、今の極楽もまた自らの心からつくられるものであります。

貪るままに生きれば、渇きのしらない餓鬼のようになり、怒りのままに動けば鬼のようになり、愚痴に毒されれば、畜生になるからであります。

自らが絶対正しいというおもいにとらわれていると、修羅のように醜く、果てしない戦いに身をおくようなものです。

生きながらにして、地獄に住むような生き方になったときに、この世は地獄になっていくのであります。

生きとし生けるものすべての命が大いに生かされることを切に願うばかりです。

私も自死は悪とは思いませんが、せっかくいただいた自分の命を生かすことを考えないのはもったいないことだと思います。

「死にたい」という言葉をいうほど苦しんでいる人が近くにいるのであれば、寄り添ってほしいと思います。

世の中から自死という悲しみがなくなるように祈ります。

安らかな日々をおくれるように願っています。

『ダンマパダ』の中にこのような言葉があります。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。

もしも汚れた心で話したり、行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。

あたかも車をひく牛の足跡に車輪がついていくように。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。

もしも清らかな心で話したり、行ったりするならば、福楽はその人につき従う。

あたかも影がそのからだから離れないように。

道は、今の自分の生き方ではダメだと思い至ったときに出会うものともいえます。

この世は苦しいと思い至ったとき、道に出会うのであります。

多くの人がそれぞれの道に出会えることを祈るばかりです。

死んでも地獄に行くことを楽しみにしている私だからこそ、この世の地獄が人々の中から少しでもなくなっていくように、苦しみと地獄を多く背負い、人々に寄り添う歩みを大切にしたいと思います。

人々の心の渇きが少しでも潤うことを願い、お茶をいきわたらせていきたいです。

死ぬくらい苦しいおもいをしている方がいれば、どうぞ三友庵をお尋ねください。

どうぞ大馬鹿者の生き方をする私を笑いにきてください。

それで心の苦しみがなくなるのであれば、私は幸せです。

最後までお読みいただきありがとうございました。

今を獅子奮迅している若い人に最大のエールをおくります!

喜びは雪月花の友三つ

茶を啜るにも経をよむにも

沙門 宗芯清竜