師が走り回るほど忙しいとされる十二月、師走でございますが、皆様はいかがお過ごしでしょうか。
おかげさまで、私も忙しくも有難い日々を送らせていただいております。
先日、保育園の子どもたちにプレゼントをお届けするため、園を訪ねました。
朝のご挨拶を終えられた先生方に呼ばれて会場に入りますと、子どもたちは、私たちの手にしたプレゼント入りの袋に気づき、目を輝かせてこちらを見つめています。
その子どもたちの様子が何とも愛らしく、自然と微笑んでしまいました。
主任の先生の進行に身を委ね、静かに時を待っておりますと、喜びに満ちた子どもたちの声が、あちらこちらから湧き上がってきます。
やがて主任の先生が「さあみんな、お礼をしましょうね」と一言声をかけられると、子どもたちは一斉に、大きな、それは大きな声で「ありがとうございます!」と伝えてくれました。
私は、微笑みを浮かべ、静かに合掌して、深く頭を下げておりましたが、その声を耳にしながら、心の奥で「ああ、この子どもたちの声こそ、仏さまの尊きご説法であるなあ。なんと有難いことだろうか」と、ただその思いに満たされておりました。
そもそも、このプレゼントは、チャリティー茶会に足を運んでくださった多くの方々のお力によって成り立っているものであり、私たちは、ただその温かなご縁を子どもたちに運ばせていただいているに過ぎません。
受け取っていただけること自体が有難く、感謝の念しかない中で、これほどまっすぐな「ありがとう」の感謝の気持ちをいただいたことは、身に余る喜びでありました。
帰り支度をして会場を後にしようとしたところ、一人の小さな女の子が、こちらに向かって手を高く上げ、ハイタッチをしたそうに見つめてきます。
私は、腰をかがめてその手に応えますと、女の子は満面の笑みを浮かべ、先生も「ハイタッチしてほしかったんだもんね。よかったね」と優しく声をかけておられました。
その光景を見ていた他の子どもたちも「わあっ」と声を上げ、一斉に私のところに駆け寄ってきて、次々と手を上げてはハイタッチを求めてきました。
とどまることのないハイタッチの波に包まれながら、私は何とも言えぬ温かさと、有難さを子どもたちからいただいたのでした。
子どもたちにお会いする前、園長先生から、園の成り立ちについてお話を伺いました。
園を創立されたのは、園長先生のお父上で、もとは医師であられたそうです。
しかし、ご自身が病になり、このままでは患者さまにご迷惑をおかけしてしまうと考え、医師の道を離れられました。
その後、世のために何ができるかと思い巡らす中で「子どもたちの心を育てるお手伝いをしよう」と志を立て、私財を投じて保育園を創立されたのが始まりであるとのことでした。
そのお志の尊さに胸を打たれると同時に、それを受け継がれた園長先生のお言葉からも、熱く、まっすぐな思いが伝わってきました。
園長先生は、穏やかに合掌されながら、次のように語ってくださいました。
「子どもたちと接していると、本当に多くのことに気づかされます。自分の至らなさや、心の汚れが、子どもたちを通して感じるのです。反省することばかりです。だからこそ、私は子どもたちを育てているようで、実は子どもたちに育てられているのだと思うのです」
そのお姿に、私は思わず、ここにもまた菩薩さまがおられるのだと、自然に頭が深く下がりました。
このひとときを通して、ふと「仏滅二千年、比丘慚愧少なし」という言葉が浮かびました。
お釈迦さまの入滅から長い時を経るにつれ、恥じ入る心、慚愧懺悔の思いを持つ修行者が少なくなっていく、それこそが、仏道にとって最も嘆かわしいことであると、祖師方が喝破されてきた言葉であります。
私自身、善きことなど何一つできぬ、慚愧懺悔ばかりの愚か者であります。
その慚愧の心を失わぬよう、常に自らを省みて歩まねばならぬと、あらためて思わされました。
さて、侘茶の「わび」とは「わびる」ということであります。
茶事を終え、独服するのも、自分へのご褒美ではなく、反省のためであります。
点前、所作、言葉、そして何より心のあり方を深く省みる大切な時間であります。
その中で、精一杯もてなしたつもりであっても「これほどのことしかできなかった」と相手に詫びる心が、ふと生まれてくる瞬間に「わびる」心が現れてくるのです。
その積み重ねを生涯かけて続けていくこと、それが茶人の道であり、また茶事茶会に限らず、日々の暮らしの中で「わびる」心を大切にし続けることこそが、真の茶人の姿であろうと、私は思うのです。
近ごろ、日本人の精神が廃れてきている、という声を耳にすることがあります。
ある方は、日本人は「ありがとう」「ごめんなさい」「はい」という三つの言葉を失いつつある、と言われました。
個人主義が広がり、何事も自分を中心に考えがちな世の中にあって、相手がいて自分もいるということ、おかげさまあっての今なのだと忘れてはいないでしょうか。
本来は人の思いやりから生まれた多くのサービスを「あって当たり前」と受け取ってはいないでしょうか。
今こそ、私たちは立ち止まって省みる時期に来ているのではないかと思わされます。
世の中の姿勢が乱れていく時代であるからこそ、道を歩む者は、まず自らの心の姿勢を正さねばなりません。
そして、少しでも世の中がよき方向へ向かうよう、人が人を思いやる温かな社会となるよう、慚愧懺悔の心を大切にしながら、ささやかでも世の中に光を灯していく努力を重ねていく必要があるのだと思います。
私は、戒を守ろうとしても守りきれぬ、慚愧懺悔尽きぬ一介の比丘であり、わびるほか道のない茶人であります。
それでもなお、精一杯、人のため、道のために、この身を心をもって人生を歩んでいきたいと願っております。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。


茶僧 宗芯清竜
