茶名(宗名)とは

In 私ノ茶乃湯考 by user

こんにちは!

先日、新川まちづくりセンターで無償のお茶会をしました。

たくさんの方々にお会いできてとても嬉しかったです。

お茶会にお越しいただいた皆様に深く感謝申し上げます。

皆様から「わぁ美味しい!」「癒される!」「いつのもお部屋が美しく、清く感じる!」といったお声をいただき、ありがたく思いました。

また、お話を持ってきてくれた新川文化芸能協議会副会長の長内様、ご協力を賜った新川まちづくりセンター、新川文化芸能協議会の役員、会員の皆様、お部屋の都合から少数精鋭でご一緒に頑張ってくれた社中の皆さまに感謝申し上げます。

さて、お茶の先生によく見られる「宗」のつく名前ってなんだろう?と思われた方は多いと思います。

弟子をとり、茶道を教授する資格を持つお茶人には、俗名とは別に宗〇といった名前が家元より授けられています。

これを茶名若しくは宗名といいます。

茶名(宗名)とは、非俗の茶道世界の住人としての名前ともいわれています。

では、その茶名(宗名)の詳しい意味についてご一緒に学んでいきましょう。

辞典から見る茶名(宗名)とは

一 茶の湯で、極意を皆伝された茶人に付ける名前。

村田珠光の世嗣(よつぎ)村田宗珠が大徳寺の名禅から「宗」の一字をもらって付けて以来、茶道家元から指南を許されると「宗」の字を上に付ける。

二 極意を皆伝された茶人に付ける名前。

古くは師匠の一字名を与えられたが、村田宗珠が参禅の師である大徳寺の名禅から「宗」の一字を授けられて以来、それを上に用い、下の一字を師匠からもらうのが習いとなった。

三 茶道で、家元より授けられる名前。

四 人間にとって,すべての時間は一期一会であろうが,日々くりかえされる習慣的な生活の世界とは別に,あえて茶会を一期一会ととらえようとするその背景には,茶会が日常生活を離れた別世界における時間と空間の共同体験であるとする意識がある。つまり,茶人が茶名と呼ばれる本名とは別の名を名のるのも,日常生活の身分や職業を離れた別の人格として交わりを結ぶためにほかならない。茶道における名が,かつては大徳寺系の法諱であったように,4時間ほどの茶会の時間だけは遁世した在家の禅者として過ごそうという意識があったであろう。

このように辞典などでは茶名(宗名)を表現しています。

上記の辞典的意味を二つに分け、考えていくとこのような背景が伺えます。

 茶の湯の極意を皆伝・会得した名人。

これから非俗の茶道世界で生きる、茶の極意を会得しようと志を立てる稽古人。

 長年の茶道稽古により磨かれた人格が師に認められ、家元より授かる俗名とは別の名前。

茶名(宗名)をもってこれからは、非俗の茶人として、茶道世界を歩むことを師や家元から求められる者。

三 非僧非俗の身であることをあらわす名乗り。

利休居士のような心がけを持ち、日々を過ごし、茶道と仏道をともに修行する者。

といった深い意味が二つ同時に込められていると思われます。

人の持つ願いが茶名(宗名)には存在する

人々には「自分とは何者か、自分自身とはなにか」といった命題がこの世に誕生してから課されています。

また、人には、日常で見せる自分とは、異なる立派な自分になりたいとする願望があるとされています。

時にその願望は、そこに答えがあって、本当の自分がいるではないかと錯覚させることもあります。

これらの願いの根底に存在するのは、日常の固定化された不自由な自分を脱ぎ去り、立派な人になりたいとする切実な人々の思いがあるのではないでしょうか。

しかしながら、茶名を得たからと、魔法のように立派な人物になることはありません。

元来、私たちの存在は、この身、このままなのです。

お茶は即今といい、只今を大切にします。

私たち茶人は、只今の中で生まれ、只今の中で生かされ、只今の中に住み、只今の中で看取られるのです。

要は、只今を以って変わる覚悟を持つことなのです。

そして、何かをきっかけに私そのものが立派に変わることを切望するのではなく、只今のおかげさまがあり、仏さまのようなきれいな心を自分もみんなも持っているのだと信じることなのです。

そのような、きれいな心で、ただ目の前の人とお茶をもって親しく交わりたいとするところに妙心があります。

確かな幸せと喜びが満ち満ちています。

何より大切なのは、有無と織りなす、この眼前世界のありのままを受け入れ、ただ心に安寧をもとめ、世俗非俗といった境涯の関所を打ち破り、全てに対するはからいの心を捨て去り、ただまるく、静かに即今の仏心を見つめ、現成受用していくということではないでしょうか。

茶名(宗名)は、これらの気付きの助けとなるものでしかありません。

また、茶名(宗名)を得ることを目的としてはいけません。

宗名・茶名は、稽古の立ち居振る舞い、人格と教養の深さ、会得してきたもの、覚悟などが勘案されて、師によって決められます。

宗の下の一字に師が弟子に願うことや期待が込められています。

茶名(宗名)は、得てからが本番だと覚悟しなければなりません。

では、茶名と宗名の違いについて見ていきましょう。

茶の湯の号「宗名・茶名」とは

どちらも同じような意味でありますが、流派によりその違いは見えてきます。

まず宗名・茶名は、あらゆる教養を深く学び、長年の茶道稽古を重ね、師に許され、はじめて茶道家元から授けられるのが慣習として存在しています。

千利休(宗易)を初代にもつ三千家では、「宗」の一字をもちい、二文字より成り立つ、宗名・茶名を正式に門弟に授けるようにしています。

茶名・宗名ともに同じ意味合いになりますが「宗名」は主に表千家で使われます。

「茶名」は裏千家で使われるなどの違いはあります。

表千家では、宗名・茶名の相伝なるものは存在せず、師から許されることにより、家元から授けられる仕組みになっています。

僧侶の直綴から生まれた男性茶人の正装である十徳も同様の流れだとされています。

しかし、この十徳は茶道と仏道をともに修行する覚悟をもってはじめて着用が許されるとされています。

この表千家の流れの根幹には、禅や仏教の考え方が影響していると思われます。

そのため、表千家では、師弟間の関係とやり取りに重きをおいている特徴があります。

裏千家も禅や仏教の考えが根幹にあることは変わらないのですが、茶名と十徳は免状という形でお家元から授けられているようです。

さて、なぜ茶道の世界では、俗名を名乗らず、茶名・宗名に重きをおくのでしょうか。

茶名・宗名を名乗る意味とは

これは、茶道の世界だけの特権というわけではなく、日本の様々な伝統文化の中にある号の取り扱いと同じく、俗名ではなく、その世界でしか通用しない仮の名を使うことが伝統の約束事の一つであるとされています。

あくまでも俗名を名乗る世界から離れた、神聖な世界、非俗の中にいるということを号により表現しているのではないかといわれています。

三千家のお家元が代々「宗」の字を受け継いでいるのも、大徳寺法諱である「宗」の一字を千利休(宗易)より大切にしているからであります。

茶道の世界は「茶味、禅味同じたるところ」とあるように茶禅を大切にする世界であります。

また、仏菩薩の無垢清浄なる世界ともいわれています。

そのため茶道と縁が今なお深い大徳寺は、今日でも「大徳寺の茶人面」と呼ばれています。

茶道は禅によって厳しく鍛えられ、禅もまた茶道とともに発展してきた歴史があります。

「茶禅一味」と呼ばれるだけの親密な関係が両者にはあります。

大徳寺法諱を示すものには「宗」若しくは「紹」の一字を僧名にいれる習わしがあります。

有名な人物には、一休さんこと一休宗純、春屋宗園、古渓宗陳、つけものたくあんで有名な沢庵宗彭などがおられます。

このように大徳寺の法諱をもつことを「宗」の一字により表現しているとされています。

あるいは、数がすくないとされていますが、竹野紹鴎、藪内紹智などの「紹」の名も茶道の世界では、生まれています。

つまり大徳寺の法諱を表す「宗」の一字をもつ宗名・茶名は、僧侶がもつ僧名の如き重みがあると同時に、僧には非ず、されど俗人でも非ずという非僧非俗の茶人の理想的な在り方がこの宗名・茶名には込められています。

また、根底には、仏道ないし禅とともに茶道があることが望ましいといった先人からの願いが込められています。

私たち茶人は、自らの強い覚悟のもと宗名・茶名を名乗る以上、脱俗の人であることを自覚して、人徳と深い智慧を備えた高僧のような心がけが必要だということを忘れてはいけないのではないでしょうか。

このように茶人に脱俗である人の自覚を促すうえでも、俗名を排し、こうした茶道の号「宗名・茶名」を大徳寺の法諱になぞらえて称させる意味があるのです。

宗名・茶名には、俗世の身分にとらわれない非俗の法体のような意味が込められております。

このようにして茶道は、世俗との一線を常に画してきたのであります。

お茶は菩薩の道なり

宗名・茶名をもつ茶人は、ながく受け継がれてきた大徳寺の法諱の線上の片隅に坐らせていただいていることを自覚しなければなりません。

そして、茶事や茶会だけではなく、日常の上でも、仏さまの御心やみ教えに心を徹し、茶道の深い精神を生かしていくことが大切であります。

茶道は菩薩の道でもあります。

菩薩様は、悟りを求め、長い修行を重ね、慈悲と利他の心の働きを大切にされる方をいいます。

私の大切にしている言葉にこのようなものがあります。

菩薩の用心は

皆、慈悲を以って本とし

利他を以って先とす

これは、弘法大師空海さまの著された『秘蔵宝鑰』に出てくる言葉です。

菩薩の心は、慈悲を基本として、自分よりも他の人を優先(益する)することを第一に考えるという意味があります。

慈とは、相手を深く慈しむ気持ち、相手をいたわり、理解したいという心の働きをいいます。

悲とは、相手の苦しみや悲しみを自分ごとのようにとらえ、少しでも取り除いてあげたいという働きをいいます。

利他とは、自分よりも他の人の幸せや利益を願うことであり、その実践の行をいいます。

己を忘れて他を益するは、慈悲の極みなりという伝教大師最澄さまのお言葉もありますが、茶道では、このような慈悲と利他の心の働きが大切だと私は考えています。

私たち人は、立派な心がけを持つことですぐに「菩薩」となることができます。

そして「菩薩は菩薩をまた生む」とする言葉があるように良い心がけは、人から人へと脈々と続いていきます。

私は、茶道の世界がただ和やかで美しく、清らかな世界であり続けることを切に願う者です。

どうか「お茶は菩薩の道なり」をご共感いただける方は、茶道の世界でそのお心をますます発揮してください。

三友庵が人々の憩いの場、社会の受け皿であり続けますように‥

昔、北海道茶道文化振興協会のブログの中でも書かせていただき、多くの方に読んでいただいた記事なのですが、あらためて修正、加筆をして、こちらでも投稿させていただきました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

合掌。

佐々木 宗芯(心徹)