お茶は菩薩の道なり・・

In 私ノ茶乃湯考 by user

先月、お弟子さんと共に高野山にお参りに行きました。

泊まらせていただいた宿坊の皆様に多くのお心遣いをいただき幸せな日々を過ごすことができました。

とくにご住職さま、副住職さまと煎茶をご一緒にいただく機会に恵まれてとてもありがたい毎日でございました。

そこでは、ご住職さまのお姿に感動を覚えました。

それは、お足が痛いはずなのにそんな素振りも見せず「どうぞ~どうぞ~」とスっと立ちながら一人一人に声をかけておられ、みんなが座るのを見届けてから、最後にお座りになられた姿勢を拝見して、とても感銘を受けたからです。

この一瞬の出来事に茶道が大切にしなければいけない心を深く感じ入り、自然と合掌してしまうほどの衝撃を受けました。

御年90歳というご住職さまの仏さまのような慈愛に満ち満ちた眼差し、微笑みが今でも思い出します。

仏さま、菩薩さまとは、このようなお方を言うのだろう。と深く心に刻まれました。

さて、悟りを求めて修行に励まれ、人々の救済に心をよせる方を菩薩さまといいます。

菩薩の求める悟りとは、悪人善人問わず備えている仏性に気付くことであり、仏心の中の信心を見出すことではないかと私は思っています。

この菩薩の悟りそのものは悟って終わりではなく、その悟りの連続に出会い新たに気付き、仏心に正しい住処を得て、世の中でそれを実践してこそのものだと思っています。

そして、連続の悟りの積み重ねと実践のなかに仏さまとしての一面を持つ、自分の本性を少しずつ見出していくのではないでしょうか。

先のブログでも書かせていただいたのですが、私の大切にしている言葉にこのようなものがあります。

菩薩の用心は

皆、慈悲を以って本とし

利他を以って先とす

この言葉は、私の大好きな弘法大師さまの著された「秘蔵宝鑰」に出てくる言葉であります。

菩薩の心は、慈悲の精神を基本として、自分よりも他の人を優先する(益する)ことを第一におこなうという意味が込められています。

慈とは、相手を深く慈しむ気持ち、相手を深くいたわり、少しでも理解したいという心の働きをいいます。

悲とは、相手のもつ苦しみや悲しみを自分ごとのようにとらえ、少しでもその苦を取り除いてあげたいという働きをいいます。

利他とは、自分よりも他の人の幸福や利益を願うことであり、その実践の働きをいいます。

このお大師さまの言葉を大切にして私は日々を過ごしています。

しかし、仏さまのように人を完全に救い、導く力など私にはありません。

また、私のような大馬鹿者は、仏様への懺悔が尽きることがありません。

恥じ入るばかりです。

それでも、そうせざるを得ないほどの大恩を仏さま、皆さまより賜りました。

人の幸せを願わずにはいられないほどの想いをいただきました。

思い起こせば、人に寄り添い、人の苦しみや悩み事を自分ごとのようにとらえた結果、死に目にあったり、胃に穴があいたり、顔の右半分が帯状疱疹になるなど色々な病気を経験させていただきましたが、とても感謝しています。

人のために悩んだり、苦しんだりできる自分に気付き、死に目にあったとしても人を憎むことなく、その人の幸せと笑顔を願い続けられる自分に出会えたからであります。

何よりもそれほどの心の痛み、苦しみをずっとお一人で抱えていたのだと思うと今も胸が痛くなります。

その痛みや苦しみを取り除き、少しでも肩代わりしてあげられない自分の愚かさ、力不足を情けなく思います。

それでも、多くの大切な気付きに出会えることができました。

それも、仏さまや皆さまのおかげさまです。

いっときは、とても愚かな自分に気付き、暗闇に突き落とされましたが、仏さまがお救いくださいました。

それはきっと、自分の道が決して間違いではないと心の中の仏さまが現れてくれたからだと思います。

かたく自分に宿る仏心を信じることができるようになりました。

そして、今までありがとう。と言葉をかけてくれた皆さまの温かい言葉の種がいっせいに花開き、逆に私を救ってくれたのだと思います。

心の中に雑華厳浄があるのだと気づきました。

さて、人に寄り添い、人を救うということはとても困難で厳しい道であります。

仏さまや菩薩さまの気持ちで人と接することは、凡夫の私には、とても愚かで、慢心な思いなのではないかとも時々考えさせられます。

ところが仏教では、大欲清浄という言葉があるのだと知りました。

大きな欲とは、菩薩のもつ欲とされており、人々の幸せを願い行動していくこと、人を救えるような人物になるために絶え間のない修行を自らに課すというとてつもない欲とされています。

この大欲は、恐れ多くも阿弥陀如来の前身である法蔵菩薩や千手観音菩薩様、お釈迦様、高僧祖師方も抱いたとされており、自分だけの幸せを求めず、みんなが幸せになることを願って、行動していこうという最も清らかな欲とされています。

私もそのような道を歩ませていただきたいと強く願っています。

弁顕密二教論にこのような言葉があります。

人の心 清浄なる時は すなわち仏を見る

人の心 清浄ならざる時には すなわち仏を見ず

色々なおかげさまに生かされているからこそ、多くの幸せを皆様からいただいているからこそ、私は大欲を抱けるのではないかと深く痛感いたします。

このような大欲を抱く中、自らの身口意を清浄に保とうとするところに仏さまとの対話や出会いがあるのではないかとも考えさせられる今日です。

何より、人々に寄り添い、人々の幸せを常に願い続けられている仏さまにおもいを寄せ、その御心に少しでも近づこうと目指している私の気持ちそのものが自分自身の修行になっていたのだと思います。

慈悲の心を大切にして、人のためにしていた利他行がめぐりまわって大きな自利となり、自分の幸せに繋がっていた!と思うことが多々と起き、有難い中に住まわせていただいているのだと気づかされるこの頃でもあります。

皆様との出会いにより多くの大切な気付きに出会うことができました。

これほど有難く、大きな喜びはないのではないでしょうか。

多くのおかげさまに生かされている私は、仏さまの御心や菩薩道に心を徹し、これからも慈悲と利他の心を大切にして、人に寄り添いながら、命生かすことを忘れず、お茶をもって世の一隅を照らせるように精進していきます。

さて、茶は菩薩道なりと提唱された茶人に堀内宗心宗匠がいます。

茶と禅を学びつつ会得された、菩薩としての道を「茶の語」として残してくれています。

「茶の語」 堀内宗心宗匠

茶は菩薩道なり。悟後の所作なり。

未だ見性せざる時は逐一ゆるかせにすべからず。

了悟すれば楽み正に倍するに止まらざるべし。

明々に如来を見、惺々に菩薩を知る。

としたうえで見性することは菩薩になることであり、茶の湯の一挙手一投足がこのなかにあらねばならないと宗心宗匠は説いておられます。

見性とは、自己の本性に気付くことであり、すなわち悟りを得ることをいいます。

菩薩の心や仏の教えを茶道の中に置き換えてみると茶の湯が最も大切にしなければいけないものに気付くのではないでしょうか。

菩薩の心の働きや人との向き合い方が茶人のあり方を示してくれるのではないでしょうか。

茶道が「心の中がきれい」であることを最大の美しさととらえ、理想とし続けてきた背景がきっと菩薩道から見えてくると思います。

人と人が互いの思い合いの中で美味しいお茶をいただくこと、和やかで美しい心が通い合う茶の世界がこれからも続いてほしいと私は願っています。

茶道の中に仏菩薩の清浄無垢な世界を見る、愚かな凡夫菩薩としての私の願いです。

三友庵が人々の憩いの場であり続けますように・・

最後にお恥ずかしいのですが私の「茶の語」を記します。

「茶の身口意」 佐々木宗芯

茶は菩薩用心の道なり。生かし生かされる慈悲利他の母なり。

この心に仏住まうと了すれば悟後の所作へと身はこなす。

茶に仏ノ心を感ずれば即ち清浄口となり嘘偽りなき真を発し。

数多如来の居に意をおく惺々の菩薩と自らを知る。

最後までお読みいただきありがとうございます。

合掌。

佐々木 宗芯(心徹)