言葉を大切に

In 私ノ茶乃湯考 by user

お釈迦様のご生誕をお祝いする花まつり茶会に向けてのお稽古をして、お釈迦様のお話や花まつりのお話をしていた時「お釈迦様は何歳ですか?」という五歳の子からいただいたそんな尊い質問があった先月の出来事です。

私はその質問に「2500歳になりました」とお答えすると、その子は顔をパァと明るくさせ「うわぁすごい!100歳でもすごいのに!お祝いしなくちゃ!」と喜んでおりました。

その様子を見ていた他の子は「お釈迦様は生きているのですか。会えますか?」と尋ねてきました。

そこで私は「仏法という、お釈迦様の教えを聞いているときにすでに心中で会っていますよ」とお答えすると、その子は満面の笑顔で出会えることに喜び、胸を愛おしそうに押さえて、他の子と会えていることに喜びを噛み締めているようでした。

そんな光景を見ておりますと、不思議なものだなぁという気持ちとともに、なんとも有難い気持ちでいっぱいになったのでした。

今の時代は、なんでも科学的に証明された事実のみが信奉され、証明されないものは、軽んじられる時代です。

当然、科学的な思考というのも必要です。

しかし、何でもかんでも目で見えるもののみを認めて、科学的な言葉のみしか信じられず、語ってはいけないのであれば、この世のすべてはまこと味気のないものになるのではないかと思うのです。

そんな時代に生きている子どもたちの純粋で温かな質問に思わず、なんともいえない温かな思いに溢れてくるのでした。

お釈迦様の教えに八正道というものがあり、その中に正語があります。

正しい言葉を語るとは、悪口を言わない、嘘をつかない、乱暴な言葉で語らない、二枚舌をつかわない、無意味なことをいわない、人を惑わす言葉を使わないといった、人としてごくごく当たり前に思えるものなのです。

その当たり前こそおろそかにしてはいないかと、私たちは日々自問しなければいけないのではないかと思うのです。

お釈迦様の言葉が集められている『スッタニパータ』では、このような教えがあります。

人が生まれたときには、実に口の中に斧が生じている。

愚かな者は悪口を語って、その斧によって自分を切り裂くのである。

古今より正しく生きようと励まれてきた人々は、皆同じく口を慎んで慎重に使っていたのであります。

やはり、茶人も先人の紡いだ道に生き生かされ、古き道を尋ね歩む者として、口を慎み使わなければならないと思うのです。

また、一歩進み、語る言葉がよき言霊となり、世の中や人々の心を幸ふものにしてこそ、茶人といえるのでしょう。

さて、『大方便佛報恩經卷第三』にこんな教えがあることを学びました。

佛阿難に告げたまわく。人の世間に生ずるや禍は口從り生ず。

當に口を護るべし。猛火よりも甚し。

猛火熾然として能く一世を燒く。

惡口熾然として無數世を燒く。

猛火熾然として世間財を燒く。

惡口熾然として七聖財を燒く。

是の故に阿難。一切衆生の禍は口より出ず。口舌は身を鑿くの斧にして身を滅ぼすの禍なり。

恐ろしい業火はすべてをことごとく焼き尽くしますが、それは一代限りでおさまるというのです。

しかし、口にしてしまった悪口の罪は、一代限りではなく、なかなか消えることなく子孫にまで及ぼすというのです。

愛する者にまでその罪が続くとは、なんとも恐ろしいことであります。

火は、世間に存在する素晴らしい宝を焼いてしまうというのです。

悪口の罪、災いは、七つの聖い財を焼いてしまうというのです。

七つの聖財というのは「一に信、二に精進、三に戒、四に慚愧、五に聞、六に思、七に定慧」の七つをいうようです。

口は禍の元、やはり慎んでいかなければならないと思うのであります。

最後に坂村真民先生の「とげ」という題の詩をご紹介します。

「とげ」

刺さっていたのは

虫メガネで見ねば

わからないほどの

とげであった

そのとげをみながら思った

わたしたちはもっともっと

痛いとげを

人の心に刺し込んだりしては

いないだろうかと

こんな小さいとげでも

夜なかに目を覚ますほど痛いのに

とれないとげのような言葉を

口走ったりしなかったかと

教師であったわたしは

特にそのことが思われた

最後までお読みいただきありがとうございました。

佐々木 清竜