何のために、誰のために生きるのか

In 私ノ茶乃湯考 by user

生きがい探しという言葉が老若男女問わず流行っている昨今のようです。

好きな趣味を見つける、楽しめるものを見つけるというものから、最近では若者たちの間で好きな推せる人を見つける、それが生きがいにつながり、幸せに生きていけるのだと信じられているようです。

好きなことが見つかり、それが生きがいとなり大いに幸せを感じられるのは、喜ばしいことであります。

それを否定はしませんが、時折、推しの応援のために生き、推しのためにすべてを捧げて生きる、推しの言ったことを妄信する、それが本当に生きがいといえるのか考えなければならないと思うのであります。

中には、自分の生活を圧迫してまで金銭や時間を消費し、借金までして、喜ばせようと、近づこうとしている方もいるようなので心配なのであります。

最も、大切にして推してあげないといけないのは、自分自身ではなかろうかとも思うのであります。

山田無文老師の『自己を見つめる』というご著書の中に「何のために生きるのか」という章があります。

その中で無文老師は「人間は菩提心を発こさねばならん。人類のために一生を捧げていくと誓わねばならん。そして、もっとも尊厳なる精神、最高の自由、最大の慈悲心をもった人間性を自覚していかねばならん。それが人生の目的でなければならん」と書かれています。

菩提心とは、一心に悟りを求める心や悟りを得て仏になりたいと願う心という意味で使われて多くは使われていますが、菩薩の道を選択してきた大乗仏教では、人々を救うためにという利他の心や道を求めていく求道心だと説くようです。

一度限りの人生とよく言われますが、それは欲望のまま、執着のおもむくままに楽しむという意味ではありません。

一生の人生をいたずらに無駄に過ごすことなく、この尊い生ある瞬間を生き尽くしていくために、菩提心を発こし、大いなる崇高な生きがいに身を投じていくということなのであります。

自分のために、周りのために、すべての人のために、そんな一歩一歩の思いが「生きている」を実感させてくれるのでしょう。

さて、先日、お空をボーと何も考えずに眺めていると、なんて美しいのだろうという感動がわき起こってきました。

大海原が天にうちあがりできたのではなかろうかと思える一遍の青空、雄大な峰々はそのまま浮いたのではないかという白雲、小鳥のさえずりさえもなんとも心地のよい有難い声なのだろうかと深くしみじみと思い、このつなぎ目のない曼荼羅の中にいる有難さが胸を熱くしていくのです。

生きとし生けるものすべては、そのまま仏さま、菩薩さまであります。

互いに手を合わせて礼拝し尊敬し合うことができれば、どんなに世界は過ごしやすくなるでしょうか。

茶道では、礼を何より尊び大切だと教えます。

あれは決まった作法だからするのではないと思うのであります。

まさに主客ともに仏菩薩と心得て相互礼拝する大切さを教えているのだと私は思うのであります。

亭主はお越しのお客様を仏さまと思い、厳かに事を運び、細部まで気を遣い、仏にお仕えするように働いていきます。

客もまた亭主を仏さまがお働きくださっているとしみじみと有難く感じ入り、身をお任せしていきます。

そんなわたくしのない我の通らない世界から、はからいを捨てきったところから茶道の理想郷は見出されていくのだと思うのであります。

日常茶飯事、朝夕と仏壇の仏さまやご先祖様に香華燈明を供え、できたてのご飯やいれたてのお茶をお供えするという日常の営みが実は茶道のすべての修行につながっているのであります。

茶室に香を焚き、花入れに花を生け、明るさを時間ごとに調節し、できたての懐石をお出しし、お茶を点てる、みなもって仏さまにお仕えしているのと変わらないのであります。

「茶は常のこと」と古人は言われましたが、そんな思いを常日頃から茶人は大切にしていきたいものであります。

互いに推し活、それこそ流行るべきものなのかもしれません。

最後までお読みいただきありがとうございました。

佐々木 清竜(黙雷)