草木に緑が満ち、しだいに暑さも感じられる季節となりました。
皆様はいかがお過ごしでしょうか。
お釈迦様は、涅槃に赴かれるにあたり、弟子たちに、自らの滅後は戒を拠り所とし、八大人覚を大切にせよと遺されました。
仏道にそった生き方をして、戒を保ち、清らかに生きていけば、無量のよきことに恵まれ、戒こそ第一安穏の功徳あるところであると説かれたと伝えられております。
江戸時代に活躍された慈雲尊者は、民衆に対して、もっとも基本となる仏道修行の実践として十善戒の大切さを説き、戒律の復興に努められました。
そのお働きは、今日においてもなお、深く心に響くものであります。
菩薩十善戒
不殺生 生きものを殺さないようにしましょう。
不偸盗 盗みをしないようにしましょう。
不邪淫 よこしまな淫欲にふけらないようにしましょう。
不妄語 嘘や偽りを言わないようにしましょう。
不綺語 真実に背いて、巧みに飾り立てた言葉を使わないようにしましょう。
不悪口 人の悪口を言わないようにしましょう。
不両舌 両方の人に違ったことを言って、離間し争わせないようにしましょう。
不慳貪 自己の欲するものに執着し、貪らないようにしましょう。
不瞋恚 怒り憎しむことをしないようにしましょう。
不邪見 因果の道理を無視する妄見を起こさないようにしましょう。
この十善戒は、自分を締めつけるためのものではありません。
むしろ、このような人としての美しい生き方が、放逸な心から自分を守り、自由にしてくれるのです。
私たち人が、正しく、穏やかに生きるための習慣の答えを、十善戒は教えてくれます。
私たちの心の中には、無数の災いへの扉があります。
その戸締りをする鍵こそ、十善戒であると、東大寺の橋村公英管長猊下から直接教えていただいたことを、今も懐かしく思い出します。
八大人覚
一 少欲
人に「欲を無くせ」と言っても、なかなか難しいものであります。
お釈迦様は、無欲を説かれたのではなく、欲は少なく生きなさいと説かれました。
欲を多く抱く者は、求めることも多く、得られても満足できず、かえって苦しみを増やします。
だからこそ、欲を少なく生きるところに、真の心の安らぎがあるのです。
名物や由緒ある道具でなくとも、あり合わせの道具、最小限の道具で茶道を楽しみ、親しき人と心を通わせる。
そこにこそ、無量の幸せと安らぎが見いだされます。
二 知足
茶道の世界でもよく聞く言葉であります。
足ることを知るということです。
本能や欲望のままに生きていけば、かえってその欲に振り回され、大きな苦悩を抱えることになります。
これで十分だと知る心に、安らぎがあります。
高価な茶道具を、あたかも貪るように集めるあり方は、かえって苦しいのではないでしょうか。
「これだけで十分だ」と思える心に、静かな喜びがあります。
多くの茶道具を抱え込めば、用いることがなくなり、道具はしだいに死んでしまいます。
用いず、人にも見せず、しまい込むことを死蔵といい、茶道はそれを好みません。
三 楽寂静
静けさの中に、安らぎと楽しさを感じることです。
情報が大きな波のように押し寄せてくる現代だからこそ、あらためて考えてみる必要があります。
テレビやネットから情報を得て、かえって苦しい思いを抱いたことはないでしょうか。
時にはそうしたものから離れ、静けさの中で自己を見つめることも、人生を豊かに生きるうえで大切であります。
情報を使いこなすだけでなく、情報の海から離れられる余裕を持ちたいものです。
四季に遊び、静けさを尊ぶ茶道には、この楽寂静に出会える瞬間が多くあります。
四 勤精進
今につとめ、今を励むところに道があります。
ただひたすらに、その道をわき目もふらず歩んでいくことです。
今を精一杯に生き、日々を雑に過ごさず、人生を豊かに生き尽くしていきましょう。
茶道のお稽古にも、只管に精進していく姿勢のうちに、勤精進のあり方を見ることができます。
そのひたむきさの中に、自分の輝きが現れてきます。
五 不忘念
正しく仏法を守り、仏を心に念じて忘れないことです。
仏教や茶道の教えは、茶室の中だけで終わるものではありません。
日常のなかに、生かしていくものであります。
香老舗松栄堂の畑正高前社長は、若き私に、茶道は「日常茶飯事」だと教えてくださいました。
まことにその通りで、茶人たる者は、いつも茶道の心、仏教の教えを忘れず、日常生活のなかに溶け込ませていく必要があります。
煩悩におかされ、本能欲望に負けてしまうのは、この念じる心が弱いからだとされています。
忘念は、結果として自分を見失い、自分を傷つけ、相手を傷つける振る舞いへとつながっていきます。
自分を苦しめ、相手を苦しめるお茶は、もはやお茶ではありません。
六 修禅定
いかなることにも心を乱さないようにすることです。
一つのことに心を注ぎ、心を静めることが大切です。
お点前を始めるとき、必ず居ずまいを正すと思います。
それは、高ぶる心を静め、一服のお茶を美しく点てることに集中するためであります。
また、一服のお茶を点て、無心にいただくその瞬間に、三昧のとき、心の光明なる禅定が現れます。
七 修智慧
聞思修証ともいわれます。
仏のような正しい智慧を磨き続けることは、茶人にとってとても大切なことであります。
多くの高齢の先生方が、「茶道は一生お勉強」とおっしゃいます。
まことに、これでよい、これで完璧だというものがないのが茶道であります。
絶え間ない努力は智慧を磨き、その智慧は、この世を歩むうえで大きな助けとなります。
智慧は、私たちを照らす灯火です。
古の茶人、高僧祖師の教えをいただき、実践していくところに、尊い茶道のあり方があるのではないでしょうか。
古き道に学び、智慧を身につけていきたいものであります。
八 不戯論
無益な争い、心を乱すような話はしないということです。
無用な分別が、大きな争いごとに発展し、憎み合いへとつながりやすい私たちだからこそ、気をつけなければなりません。
今すべき大事に目を向け、そこに全力で取り組むことの大切さを、お釈迦様は大人の大事として説いておられます。
茶道を志す者同士、無益な争いをせず、人を傷つけるような話をせず、仲良くしたいものです。
仏教には、こんな話があります。
修行の旅をしていた二人の僧侶が歩いていると、川を渡れず、家に帰れないと困っている少女に出会いました。
そこで一人の僧侶は、その少女を背中に担ぎ、川を渡りました。
少女は深く感謝して去っていきましたが、もう一人の僧侶は納得できませんでした。
戒律には、女性に触れてはならないという定めがあったからです。
そのため、背中に乗せたことを何度も批判しました。
すると、背中に担いだ僧侶は、「私は川を渡り終えたところで、あの少女のことはすっかり忘れていた。お前は、いつまであの少女を抱いているのだ」と叱ったというお話であります。
このお話は、高野山の法印さまから直接教えていただいた、有り難いお話でありますが、法印さまはさらに、こう続けてくださいました。
「戒律を守ろうとすることは、とても大切です。けれども、時には、この僧侶のように、戒律を破らなければならない時があります。その時の判断に必要なのが叡智の働きです。修行を重ねて、世間や多くの人々から立派な和尚さまと呼ばれるようになってくださいね。」
そのお言葉は、今も心に残っております。
さて、先月から風炉へと変わる時期となりました。

かぜうごきて つる まつにきす
お家元のお稽古場では、初風炉を迎える時期に掛けられるとされております。
心地よい薫風が南より吹きはじめ、心に新鮮な喜びを感じる今日でありますが、風が働くと、鶴は松に帰ってくるようです。
鶴は千年、松は不変といわれるほど、めでたい長寿の象徴であります。
無事に風炉の時期を迎えた、目出度い雰囲気がそこにあります。
これに似た言葉に、松高白鶴眠があります。
これは、力強くすっくと伸びている老いた松の枝に、白い鶴がとまり、眠っている情景を表したものです。
鶴は自分自身を表し、私という存在が、美しく輝く松の緑と一味一体となった境地を示しているともいえます。
また、鶴は世の中における自分の浮き立つ心、あちこちと動きやすい心も表しているのでしょう。
その激しく忙しい動的な部分を、不変の本来の面目、不動のごとく動かない松のような静的な面に立ち返る、基本を見直す、そのような機会の大切さを、この言葉は教えてくれているように思います。
さて、炉のはじめも風炉のはじめも、運び点前の稽古をすることは、茶道の中で大切な習わしとされております。
座敷に名物を飾ることを至上としていた風潮を破り、簡素な運び点前を主流にした人物こそ、千利休であります。
運び点前は基本の「き」にあたるものとされ、最も難しいともいわれます。
お家元で稽古をさせていただいた折にも、宗匠は、運びこそ一番大切だと教えてくださいました。
利休の心を感じられる一節を、茶書からご紹介いたします。
『数寄道次第』第一巻の末尾に、このように記されております。
当世の茶の湯とは、宗易という数寄者、昔のくどきことを除き、点前は軽く、手数少なく、簡なるところを本とする。
茶盌にても濃き・薄きのかわりを肝要に点つれば也。
座敷の広き狭きによらず、左構え也。
また、道具を運ぶこと、みな侘数寄の仕舞い也。
その利休の心に帰り、どんなに茶歴の長い先生も、等しく基本に帰ることの大切さを、この掛物からは感じます。
人をつくる点前こそ、運びの点前であるといわれます。
そこで堀内宗心宗匠は、日々の稽古について、私たちにこのように伝えてくださいました。
「薄茶平点前が『人』をつくる。もてなしの中心となる一椀のお茶は、関係のない別のところから運び出されるものではなく、一つの茶室内に主客同座して、亭主自身によってつくられるものでありますし、同座する客が受けることのできるもてなしであります。さて、この雰囲気をつくり出すものは、『人』でありますから、その『人』はいかにあるべきか、という問題があります。この『人』をつくるのが、実は薄茶の平点前なのであります。」
「成所作智」という仏教の言葉があります。
この「成所作」とは、成る目的があって、はじめて働きが起こること。
所作は、成してこそ完結し、あとは何も残さないことをいいます。
この言葉は、私たちの人生を表しているようにも思われます。
茶道も仏道も、ともに基本の「き」を見直す時期が必要でありましょう。
基本をおろそかにせず、大切にする姿勢が、香のような馥郁を人に、世間に運び、幸せを満ちさせ、あたりを癒していくのだと思います。
弘法大師空海さまの教えに、このようなものがあります。
身は花とともに
落つれども
心は香とともに飛ぶ
花が散るように、身はやがて朽ちていきます。
けれども心は、芳しい香りとなって世界に広がり、ご縁のある人々の中に残り続けるのであります。
一生を香と成して、そのような人生を歩んでいきたいという、善なる思いが、永遠に残る最良の香となっていくのでしょう。
最後までお読みいただきありがとうございました。
佐々木 清竜
