先日、三友庵において、小さなお子様の入門式をお勤めいたしました。
お父様、お母様、弟様が見守る中、お家元のお許しを宗渓さんが代読し、私と志竜さんが利休像の御前で読経をさせていただき、宗渓さんが炭点前、懐石、濃茶、薄茶と、ひとつひとつと静かに厳かに運ばれていきました。
毎年、入門式はございますが、この日は少し違いました。
初めて孫弟子の入門に立ち会わせていただいたのであります。
幼い姿を前にしていると「道」というものは、こうして受け継がれていくのだと、胸が温かくなりました。
「入門」とは、ただ門をくぐることではありません。
門をくぐれば、その内には、その世界の約束事があります。
家を一歩出れば、社会の約束があり、異国へ渡れば、その土地の文化や習わしがあります。
私たちは、自分の思うままに生きているようでいて、実は無数の「門」をくぐり尊重しながら生きているのであります。
茶道にもまた、たくさんの約束事はあります。
その道に入るための門があります。
しかし、その門は人を縛るためにあるのではありません。
人を育てるためにあります。
自己を育てていくという決意の門をくぐるということなのであります。
この日、私はお子様に「和敬」の心をお話しいたしました。
和とは、和やかな心や顔で人に向き合い、相和合していくこと。
敬とは、自分が自分がとなる心を戒め、謙虚さをもって相手が誰であっても等しく敬い、礼を尽くすこと。
それは大人にとって難しい教えではなく、人としての当たり前に感じるかもしれません。
けれども、一生をかけても学び尽くすことのできない教えでもあろうと思うのであります。
茶室では、お点前の間違いを叱られることはあっても、罰を受けることはありません。
点前の修得は規矩の中から忽然とわき起こる大自在の発見への一歩なのであります。
けれども、茶道の世界の約束事を軽んじたり、和敬を忘れれば、茶道の心から離れていき、しだいには自分の心が乱れるようになっていきます。
庭は手入れを怠れば草が茫々と生い茂ります。
私たちの心も同じです。
少しずつ我が伸び続けていくと、我慢慢心が強まり、人を責め、自分を絶対正しいと思うようになります。
それでは、茶人としての歩みの意味がなくなってしまうと思うのです。
茶道は、お茶を点てる稽古である前に、心を耕す稽古であると思うことが肝要なのではないでしょうか。
心を耕し続けている茶人の点てるお茶こそ「美味しい」といえるお茶なのだろうと私は思うのであります。
竹野紹鷗の肖像に大徳寺の大林和尚が賛を書いた下二句にこのようなものがあります。
料知茶味同禅味(料り知る茶味は禅味に同じきことを)
吸尽松風意不塵(松風を吸尽して意塵にあらず)
とあります。
茶道の世界は茶禅の世界といわれます。
それは、禅道とともに発展し、鍛えられてきたからであるということのみならず、古の茶人たちが心の修行に重きをおき、その修行を茶をもって重ねてきたという証なのであります。
禅が坐禅で自己を見つめ、人をつくるのであるならば、茶道は平点前やお茶を点てることで自己を見つめ、人をつくっていくのであります。
形は違っても、向かう先は同じであると古人の足跡から思うのであります。
利休道歌の中にこのような歌があります。
その道に入らんと思ふ心こそ
我身ながらの師匠なりけれ
利休道歌の最初に詠まれているこの歌は、道に入り学び続ける姿勢の大切さを教えているものです。
絶え間なく自己を向上せんと思う気持ちこそ、道の一歩先を歩む、我が心という名の師匠であるという意味であります。
お釈迦様は、
学ぶことの少ない者は、牛のように老いていく。
肉ばかり増えて智慧は増えない。
と説かれました。
年齢を重ねることと、人間が成長することとは違います。
学び続ける人だけが、向上している自分に出会うことができます。
古の祖師方は道を志、一生涯かけて学び続けてこられたと言われます。
だからこそ、その尊い足跡を私たちは歩んでいけるのでしょう。
茶道も村田珠光、竹野紹鷗、千利休のみならず、無数の茶人たちが心の修行を通じ、完成させた人として真に目覚めていく手がかりの道でもあると思うのであります。
入門とは、終わりではなく始まりです。
先日の二日、小さなお茶人さんがまた一人、このお茶の道に入りました。
これから幾度も失敗を重ね、悩み、迷い、それでも茶道を通して心を磨いていくことでしょう。
私もともにこの子の成長を見守らせていただき、ともに茶道の修行をし続けていきたいと思うのであります。
最後に坂村真民先生の詩をご紹介します。
こころ
こころを持って生まれてきた
これほど尊いものがあろうか
そしてこのこころを悪く使う
これほど相すまぬことがあろうか
一番大事なことは
そのこころに
花を咲かせること
小さい花でもいい
自分の花を咲かせて
仏さまの前にもってゆくことだ
その道の歩みの先に、その子だけの美しい花が咲くことを願っております。
その花は、誰かと比べるための花ではありません。
仏さまにそっと供える、自分だけの花であります。
来年の利休忌にて一歩成長した姿を利休さんに見ていただくことを願っております。
入門式を終え、帰っていく小さな後ろ姿を見送りながら、私もまたありがたい初心をいただいた一日でありました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
佐々木 清竜(黙雷)
